女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
というわけで、民主主義には二度万歳をしよう。一度は、多様性を許すからであり、二度目は批判を許すからである。ただし、二度で充分。三度も喝采する必要はない。三度目の喝采に値するのは「わが恋人、慕わしき共和国」だけである。
――E.M.フォースター/小野寺健訳「私の信条」(1938)、『フォースター評論集』(岩波文庫、1996)所収
民主主義について考察した前段を承けてフォースターは、こう述べている。「多様性 variety」と「批判 criticism」とを許すという二点に民主主義の価値を集約しているわけだが、これらはフランス革命のスローガンとして知られる「自由、平等、友愛」のうち「自由」と「平等」にかかわっている。自由と平等を実現するには「多様性」と「批判」に対する社会的寛容が必要だからである。「多様性」は「自由」と「平等」の前提をなし、「批判」はこれらを保持しつづけるための手段となる。
だが、民主主義を支える「自由」と「平等」は背反する関係にある。自由の一途な追求は人間同士の「平等」な関係を歪めずにいない。逆に「平等」の追求は「自由」を制限せずにはいない。経済的利益の追究に焦点を絞り込む新自由主義が政治の介入を忌み嫌って「小さな政府」を望むゆえんである。新自由主義信奉者たちのこうした意向に応ずる経済政策が、巨大な経済格差を生じさせる契機となったことはいうまでもない。
「小さな政府」志向はCOVID-19のパンデミックによって幾分か是正されたとはいえ、格差の解消にはほど遠い状況だ。AIが人間の知能を追い越す技術的特異点[シンギュラリティ]の到来は、労働からの疎外状況を深化させつつ、経済格差を更に増大させずにはおかないだろう。「自由」が「平等」を蔑ろにする動きは、今もなお続いている。
このような「自由」と「平等」の関係に調和をもたらそうとする発想が、スローガンの最後に置かれている「友愛」だ。友愛の精神は「自由」と「平等」のバランスを社会にもたらさずにいないはずだからである。ひとくちに「自由、平等、友愛」というが、フランス革命のスローガンはこういう構造を内在させているわけだ。
では、フォースターは「友愛」について、どのような考えを懐いていたのだろうか。これについては「わが恋人、慕わしき共和国」という引用句がヒントを与えてくれる。
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このフレーズはアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンの詩集『日の出まえの歌 Songs before Sunrise』(1871)のなかの「ハーサ Hertha」から引かれている。この詩人は、今日ではあまり重視されていないように思われるが、かつてオックスフォードやケンブリッジの学生たちのあいだで人気の高い詩人であった。フォースターもケンブリッジのキングス・カレッジの学生だった二〇世紀の初頭にスウィンバーンの詩にふれたのだろう。
この詩集でスウィンバーンはイタリアの国家統一運動に心を傾けつつ、共和制への熱い思いを謳い上げている。彼にとって共和国とは政治体制といよりも一種の心的状態であり、もとめられているのは精神の共和国であった。「わが恋人、慕わしき共和国」という詩句をフォースターが引用した理由は、おそらくここにあった。ではフォースターにとって精神の共和国とはどのようなものであったのか。
これについて考えるきっかけを与えてくれるのは、上に掲げたくだりのあとの方に見いだされる「私は貴族制度の価値を信じる」ということばだ。
共和制というのは、一部の権力者や支配階級のためではなく、構成員のすべてにかかわる価値を追求する政治体制のことだから、それが民主制と親和性をもつのは当然である。「私の信条」にも民主制と共和制を同義のように用いている箇所がある。だが、共和制は「貴族制度」と相容れないわけではない。これは古代ローマの共和制において一目瞭然だ。その初期において国政の中枢にあったのは、市民によって構成される「民会」ではなく、貴族階級から選出された執政官と、同じく貴族階級から選ばれる元老院だったのである。
そればかりではない。前509年に王を追放したあと、ローマ人たちは自分たちの国を「公共のもの」を意味するres publicaと呼び、これが英語のrepublicやフランス語のrépubliqueの語源となったのだが、この名称には、民主制への警戒感がはらまれてもいた。その当時、民主制は衆愚政治への傾きにおいて捉えられており、これはプラトン、アリストテレスまで遡る見方であった。裏返していえば、伝統的教養を身につけた貴族階級は、公共のための善政を行う可能性が一般の人民よりも高いと考えられていたのである。
執政官(元首)、元老院、民会による混合政体であったこともさることながら、ローマ人たちが「共和制」の名を選んだ背景には、こうした民主主義観が控えていたわけだ。
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ただし、急いで断っておかねばならないが、フォースターのいう貴族制は、世襲的な特権階級を戴く政体の意味ではない。彼は、こう書いている。「私の頭にあるのは地位とか権力にもとづく力の貴族制度ではなく、感受性がゆたかな人びと、思慮のある人びと、勇気のある人びとを基盤とする貴族制度なのだ」、と。そして、こう続けている。「彼らが体現しているのは真の人間的伝統であり、残酷と混乱にたいするわれら変人仲間の永遠の勝利なのだ」と。「真の人間的伝統」は性善説的な人間観に根ざすものであり、それはまた、「人文学的教養」としての知性の伝統でもあるだろう。フランス語でいうところの「ユマニテhumanité/humanités」である。
フォースターの性善説は、たとえば「たいていは、政治屋のばあいでさえ、信義は守り「たい」と思うものだ」という一節にうかがうことができる。この一節に続けて彼はこう書いている。
だからこそ、われわれはそれぞれのささやかな灯りを、たよりなく震えているささやかな灯りをかかげて、自分の灯りだけが闇のなかで輝く唯一の灯りではないことを、闇が負かすことのできない唯一の灯りではないことを信じられるのである。
「われら変人仲間」といっているが、「変人」という自己規定は現状への対抗的な姿勢を示し、「仲間」というのは、ゆたかな感受性と思慮深さと勇気を共有する個人と個人の関係を指す。フォースターは、「信頼に値する人間」同士の「個人的な人間関係」によって、「現代の混乱にも多少の秩序をもたらすこと」が可能であると考えていたのだ。こうしたスタンスは、同じエッセイにみえる次のことばに端的に示されている。
国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときには、国家を裏切る勇気をもちたいと思う。
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彼が価値をみとめる「変人」たちの「貴族制度aristocracy」とは、語源的な意味におけるそれ、すなわち「最善の(aristos)者による支配(kratos)」のことであった。暴力と浅慮が支配する世の中にあって、最善の人びとは「変人」として遇されるほかないのである。
また、フォースターのいう「貴族制度」における支配は権力の発動を伴わない。支配とはいいながら統治することでさえない。あくまでも社会に「多少の秩序をもたらすこと」が「変人」貴族たちに課されたミッションなのだ。
では、そこにもたらされるべき秩序とは、いったいどのようなものなのだろうか。
これを一言でいうのは難しいが、共和制のスローガンに照らして考えるならば、とかく確執をかもしがちな「自由」と「平等」のあいだを調停することであり、秩序の原理は、第三番目のスローガン「友愛」にかかわると考えることができる。フォースターの想い描く「貴族制度」、ユマニテの香気につつまれた信頼すべき個人と個人の関係から成りたつアソシエーションのイメージは「友愛」の語を呼び寄せずにおかない。精神の共和国における友愛の貴族制、思うに、これがフォースターの求めるところであった。
だが、フォースターは夢想家だったわけではない。彼は、この世の根柢に「力Force」が潜んでいることを知っていた。権力と、それを体現する暴力装置――軍や警察――なくしては社会が保ちがたいことを心得ていた。そして、このような「力」の発動が抑えられている状態を彼は「文明」と呼ぶのである。フォースターは最も良質な意味でリアリストであった。
最後に、もういちど「私の信条」から引いておくことにしよう。フォースターは、裏切り、略奪、威嚇、殺戮、侵略など現代の国家間の行動の低級さを指摘したうえで、こう書いている。
これでは未来に希望はない。もっとも、闇が深ければ深いほどかぼそい灯りはかがやき、「とにかく、おれはまだ生きているぞ。おれはこんなのは嫌だが、きみはどうだ」と声を掛け合って、励ましあうのだが、わが貴族たちの灯り、不敗の軍隊の信号灯が消えることはない!「こっちへ来いよ、楽しめるうちに楽しんでおこう」彼らはこんな信号もしているのだろう。
このエッセイが発表されたのは1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、ユダヤ人迫害が開始された年のことであった。
執筆 2024年7月14日
2024年7月22日