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摘読録――My favorite words 第47回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

それらの山々の麓のところで、羊毛のような雲が長くつづいて河の上にかかっていた。私達の下、カフェ河の左岸にひろがっている平原には、私がアフリカにきて以来一度も見たことがなかったほど大きな野獣が多くすんでいた。幾百頭もの水牛と縞馬がひろびろとした空地で草を食べ、木々の下では、威風のある象が堂々たる様子をして物を食べていた。(…)この珍しい光景を、そして鉄砲の数が多くなるにつれて消え失せてゆく運命にあるこの光景を、写真におさめておきたかった。
――デイヴィッド・リヴィングストン/菅原清治訳『アフリカ探検記』(原著1857)

 

少年の日にリヴィングストンの伝記を読んだとき強く印象に残ったのは、アフリカの過酷な風土に踏み込み、道を切り拓いてゆく果敢な探検家の姿だった。奴隷貿易廃絶への意志や医療行為によるヒューマニズムの実践も心に残ったものの、探検家のイメージは、それらをはるかに凌駕していた。アフリカがヨーロッパの植民地支配から脱して、つぎつぎと独立国が誕生していった時期のことである。
 リヴィングストンは1840年にグラスゴーからアフリカへと旅立つ。「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカに西欧近代の光をもたらそうとするプロメテウス的な意志に促されてのことであった。だが、彼を探検へと駆り立てたのは啓蒙の意志ではなく、未踏の風土への憧憬であった。そのことを窺わせるのが、ここに引いた一節だ。アフリカ南部のザンベジ川がカフェ川と分岐するところを目指す道すがら、山の頂で目にした光景をしるし留めたこのくだりには、悠然たるアフリカの風土への讃嘆と慈しみの念が響きわたっている
 リヴィングストンの探検行は、アフリカに関する数々の情報を大英帝国にもたらし、その結果、英国によるアフリカ支配が推し進められることになるのだが、それは、彼の本意ではなかった。リヴィングストンを突き動かしていたのは未知への情動であった。未知なるものを見届けたいという思いであった。その思いもまた大英帝国の枠組みのなかで初めて可能となったといえないこともないとして、しかし、未知への情動はその枠組みの外部への促しでもあったろう。
 本格的に探検に乗り出す契機となったヌガミ湖発見の旅、その途上で塩湖の蜃気楼に出くわすくだりは、彼の未知への情動が感性の悦びに通ずるものであったことを示している。「入日が青色のぼんやりした美しい光で白い塩湖の面を照らしていて、広い塩湖はまさしく湖のように見えた」とリヴィングストンは書いている。「波は踊り、木の影は完全に写し出されて」おり、群れをなす縞馬の姿が、まるで象たちのように見えたと。そして、やがて「もうろうとしている大気の中に裂目のようなものができ、それらの幻影は消え失せてしまった」と。ここには、うつくしいものの生成消滅の刹那性が言外に語られている。
 菅原清治の訳は、原書の半分ほどに切り詰められたもので、改変や要約も行われているということだが、ここに引いたくだりは原書 Missionary Travels and Researches in South Africa と対応している。

 

2023年11月24日改稿

2023年11月15日

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摘読録――My favorite words 第46回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

そうやな、まあものにたとえたら、暗闇にへたつけたような……

――桂米朝「天狗裁き」の枕より

 

初夢を縁起のいい順に数えて「一富士、二鷹、三茄子[なすび]」という。「暗闇にへたつけたような」というのは、正月二日に巨大な茄子の夢を見た男が、その大きさを喩えたものいいである。「へた」は漢字で書くと「蔕」、実と茎を繋ぐ役割をしている部分のことだ。

 米朝は「これが世界で一番大きな噺でございます。こんな雄大なたとえはちょっとないやろうと思いますが……」と言っている。なるほどそのとおりだろうと思うものの、ちょっと考えてみると、この「雄大」さは意外と複雑な仕組みによって成り立っている。

 暗闇に蔕をつけるという場合、暗闇はひとつの塊のように捉えられている。光のなかの事物のように見なされている。だが、もちろんこれは想像上のはなしで、現実には光のもとで闇を見ることなどできるはずがない。闇というのは光の欠如であり、光は見ることの条件だから、闇を見ることは原理的に不可能なのだ。そもそも闇は環境でこそあれ視覚の対象ではありえない。

 見ることのかなわない闇は体験するほかない。闇の体験とは闇に包まれることにほかならない。あるいは、触覚的だといってもよいが、このようにして闇のなかに在るとき、それは果てしないものに感じられる。「雄大」という形容はその体感に由来している。

 もちろん、夜のなかを東へ向かってひたすら歩みを進めれば闇は徐々に陽光のなかに溶け出してゆくはずだし、室内の闇は壁、床、天井によって区切られている。とはいえ深い闇の底にあって、闇に浸りきるとき、たとえそこが室内であったとしても闇は際限のないものに感じられる。そこには空間を示す視覚的な次元が存在しないからだ。広がりの欠落が想像的に無限の広がりへと転化するのである。

 闇に眼を凝らすとき、闇は光のように眼の奥へと急速に入り込んで身体を満たす。しかし、それもつかのま闇は皮膚から滲み出るようにして外部の闇に溶け込んでゆく。皮膚に包まれた身内の闇が溶け出して、皮膚は有るか無きかの薄膜と化する。このとき、ひとは闇と対面しながら闇に浸り、闇に溶け出しながら闇に浸透されている。闇は開かれつつ閉ざされている。これが闇の体験である。

 米朝のいう「雄大」の感覚は、内と外、開放と閉塞のこうした二重性に由来している。複雑な仕組みと言うゆえんだ。

 それにしても、なぜ「なすび」の夢が縁起がよいとされるのか。一説には「成す」に通ずるからだというが真偽のほどは分からない。しかし、開かれながら閉ざされるという矛盾をはらむ経験が闇において成り立つのは否めない。その意味で「成す」説は一抹のリアリティを帯びる。

 

※引用は『米朝落語全集』増補改訂版第5巻(創元社、2014)による。

 

  

2023年9月25日改稿

2023年9月6日

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摘読録――My favorite words 第45回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

むかし此の頃の事どもも人に欺かれしを、我又いつはりとしらで人をあざむく。よしやよし、寓[そら]ごとかたりつづけて、ふみとおしいただかする人もあればとて、物いひつづくれば、猶[なお]春さめはふるふる。

――上田秋成『春雨物語』序(1808‐1809)

 

なるようになれと思い決めて嘘っぱちを書きつづければ、春雨が降るわ降るわ――かつて、ものを書くとはこういうことだと教えてくれるひとがあった。しかも、そのひとは、評論の書法にかんして、このことばを引いたのだった。こちらとしては虚を衝かれた思いだった。評論が嘘っぱちであって良いわけがないからである。しかし、相手は手だれの、しかも年長の文芸評論家であったから、単純にお門違いと責めるわけにもいかない。では、これをどう解釈すればよいのだろうか。口に出すことはしなかったけれど、そのとき頭にあったのは、こんな考えだった。評論が嘘っぱちであってはたまらないけれど、この秋成のことばを、ものを書く事が不可避的にはらんでしまう嘘について語ったものと解すればどうだろう・・・・。

 

 

『春雨物語』は歴史物語を柱とする作品集であるから、ここに引いた序のくだりは物語と歴史叙述の境界の曖昧さについて述べているとみるのが妥当だとしても、他人の言にだまされた自分が、それを偽りと知らずに他人に伝え、意図せずして他人を欺くという冒頭のくだりは、歴史叙述一般にかんする意見として読むことができる。

 嘘っぱちを書き並べておきながら、真っ当な書物としてありがたがらせる人物もあるのだから、というくだりは皮肉にすぎないとしても、史にかんする秋成の洞察は鋭い。歴史研究に携わってきた者として身につまされるところがある。史料が信ずるに足るものかどうか、これを判断するいわゆる史料批判は歴史研究の死命を決する重大事であるからだ。

 とはいえ、ことは史料批判にのみかかわるわけではない。それどころか、このくだりは秋成一流のソフィストケーションと読むこともできる。『春雨物語』に収められた諸篇は、歴史物語の体裁をとりつつ、そこからの離脱を企んでいるからだ。史書を踏まえつつ、しかし、「作者の思ひ寄する所」(「ぬば玉の巻」)を際立たせようとしているのである。秋成は、そのために虚構ということばの権能を行使している。そして、その権能は、また、ことばの宿痾でもある。真実を語ったつもりなのに言葉が虚妄の綾を出現させてしまうという経験は珍しいことではないし、虚言のなかに一抹の真実が含まれているというのも、しばしば経験するところだろう。

 こうして、冒頭の一節は、歴史がことばによってしるされるという事実がはらむ問題へと思いをいざなう。文章を書くことの落とし穴、すなわち、表現しようとする何かを完璧に言い表わすことの困難ゆえに文章がはらむかもしれない嘘へと思い至らせずにはいない。

 

 

書くことが嘘をはらんでしまうことを鋭敏に自覚しつつ、しかし、その自覚を抱いたまま敢えて書くことを始めるにはどうすればよいのか。「よしやよし」というのが秋成の答えであった。すなわち、なるようになれ――という気合である。

 序の書き出しは「はるさめけふ幾日[いくか]、しずかにておもしろ」であり、春雨が幾日も静かに降りつづく短歌的抒情性に充ちた情景を書きとめているのだが、「春さめはふるふる」という独特な表現は、それと決定的に異なる語感を響かせている。そこには、せき立てるような雨音に重なる捨て鉢ともいえる気分がある。ためらいや呵責からの飛躍がある。見る前に跳ぶ蛮勇といってもいい。「よしやよし」という気合が、この印象的な言葉を呼び起こしたのだ。この気合には諦念の響きがこもっている。

 秋成が草稿類を庭の古井戸にまとめて放棄したことはよく知られているが、この行為もまた「よしやよし」という気合にかかわる。ひたすら書きつづけ、書き溜めたものを井戸に投げ込むというこの奇矯な行動は、読者を想定することなく書き続ける実践、純粋なエクリチュールへの没入を思わせずにおかない。書くことへのひたむきな欲望が、ことばの宿痾に由来する後ろめたさを追い越しつつ筆尖を突き動かし、あるいは、吸い込むように筆尖を引き寄せる。

 

 

あのとき、くだんの評論家は皮肉そうな笑みを浮かべたまま黙り込んでいたが、『春雨物語』の序に評論の作法を見いだす指摘は、乱暴ともお門違いともみえて、じつは書くことへの繊細な、それゆえ先鋭な構えを教えていたのだと、ここまで書いてきて、はじめて腑に落ちた気がする。あれは独善と鈍感を排する書くことのリアリズムの教えであったのだ、と。

 

2023年4月17日

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摘読録――My favorite words 第44回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

この考へる水も永劫には流れない

永劫の或時にひからびる

ああかけすが鳴いてやかましい

――西脇順三郎「旅人かへらず」(1947)

   

古びたゼンマイを巻くようなカケスの声。そのイメージが引き起こす唐突な転調。

  

この切断はシュルレアリスムのディペイズマンを思わせるが、それは俳句における「取り合わせ」を思わせもする。「取り合わせ」の魅力は、意味やイメージや音を程よく調和させることではなく、むしろ、異和によって詩的空間を立ち上がらせる点にこそあるのだ。

  

あるいは、ここから俳句における和文脈と漢文脈の結合に思いを馳せることもできる。ビー玉をぶつけ合うような孤立語(漢文)の乾いた詩法を、膠着語(和文)の纏綿たる抒情に挿入する俳諧的やり方で、西脇順三郎は日本の詩に君臨する短歌的抒情にハレーションを引き起こし、それによって、古典的語法をモダニズムへと一挙に転位させたのである。

  

エズラ・パウンドが西脇の英語の詩を褒め称えたのは、西脇の詩に、こうした俳諧の妙味を感じ取ったからだったのかもしれない。パウンドは漢詩や俳句に関心を抱き、フェノロサの漢字論の編纂も手掛けているのである。

  

「旅人かへらず」にみられる切断の発想は西脇の詩法全般に通底している。自身の詩法について述べた「あむばるわりあ」のあとがきの一節を引く。

  

一定のもとに定まれる経験の世界である人生の関係の組織を切断したり、位置を転換したり、また関係を構成してゐる要素の或るものを取去つたり、また新しい要素を加へることによりて、この経験の世界に一大変化を与へるのである。

  

つづく一節で西脇は、経験世界に変化を引き起こす詩のメカニズムを「小さい水車」に喩えて、こんなふうに言い換えている。この水車の力によって経験世界にかすかな「間隙」が生じ、それを通して「永遠の無量なる神秘的なる世界を一瞬なりとも感じ得る」のだ、と。この「小さい水車」に回転をもたらすのが「考へる水」であることはいうまでもない。

  

 

2023年3月22日改稿

2023年3月9日

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摘読録ーーMy favorite words 第43回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

もしもわれわれが支配者を選ぶときに、候補者の政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう。

――ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳『私人』(1996)

  

スタンダールやディケンズやドストエフスキイについて、選挙の候補者にまず尋ねてみるべきだとブロツキイはいう。そして、その理由を「少なくとも、ディケンズの小説をたくさん読み耽った者にとって、いかなる理想のためであれ自分と同じ人間を撃ち殺すことは、ディケンズを読んだことのない者にとってよりも難しいだろう」と要約している。

  

ブロツキイにとって、文学作品を読むということは、たった一人で作者と対等に向かい合う「私的な会話」であり、こうした読書体験は、やがて個人の行動を規定せずにおかない。そのようにして、人びとは文学作品を「演奏」するのだ、とブロツキイはいう。こうした考え方の根柢には、美と善をひとつにみようとするカロカガティア(善美)の発想がある。

  

23才のブロツキイは旧ソヴィエト連邦で、定職もなくごろごろしている「徒食者」として逮捕され、裁判にかけられた。1963年のことだ。そのときの裁判記録には、裁判官とのこんなやりとりが記録されている。沼野充義による訳者「解説」から引く。

  

裁判官「いったい、あなたの職業は何なんです?」

ブロツキイ「詩人です。詩人で、翻訳もします」

裁判官「誰があなたを詩人と認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」

ブロツキイ「誰も」(挑戦的な態度ではなく)「じゃあ、誰がぼくを人間の一人に加えたっていうんです?」

  

ここにも人間として生きることと文学とをひとつにみようとする構えが見いだされる。これがカロカガティアを踏まえた構えであることはいうまでもあるまい。

  

『私人』はノーベル文学賞受賞記念講演の記録。

  

2022年7月6日

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摘読録ーーMy favorite words 第42回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ

――イマヌエル・カント/中山元訳『道徳形而上学の基礎づけ』(1785)

 

「道徳」という語は手垢にまみれている。手垢にまみれているのは、それが扱いやすいからだ。扱いやすいのは、種々雑多な感情や心的傾向に馴染むからである。つまり、ご都合主義的な利便性をもつわけだ。カントは、こうした通俗道徳を、みずからが探究する「道徳」と峻別しようと企てた。理性から無条件に発せられる至上命令、カントにとってはそれこそが道徳であった。

 

そのためにカントは、俗に「道徳」と称されるものの道徳としての資格をチェックする方式を探究した。その探究の最初の成果が『道徳形而上学の基礎づけ』であり、そこでカントは、道徳的な行いの在り方を冒頭のことばのように規定してみせたのだった。いつでも、どこでも、誰にでも――あたかも自然法則のように――当てはまることを欲しうる、そのような行動原理のみにしたがって行為するならば、その行為は善き行いであって、「道徳」の名にあたいするというわけである。

 

カントは「寛容」「慈悲」「正直」「誠実」などの徳目を数え上げることをしていない。ここに引いたカントのことばは、こうした徳目が、ほんとうに「道徳」の名にあたいするかどうかをチェックする方式を示しているだけだ。いいかえれば形式だけがあって内容がない。だから、道徳論としては物足りない思いを抱くかもしれないけれど、具体的な徳目が民族や国家や時代のバイアスによって制約されがちであることを思うとき、また、鼻持ちならない通俗道徳を押し返すうえで、この方式は、がぜん重要性を帯びてくる。道徳性のチェックは「道徳の清算」(ニーチェ)でもありうるのだ。

 

 

いうまでもなく善き行いは自発的なものでなければ意義をもたない。「欲する」という言葉には、そのような意味合いが感じられる。自発的ということは、見せかけではないということを含意している。見せかけでないとは、善き行いが何事かの手段ではないということ、踏み込んでいえば、善き行いそのものが目標として目指されているということだ。

 

「普遍的」というのは、誰にでも当てはまるということだから、カントの方式は他者の存在を前提としている。すなわち、他者との相互性が想定されている。自己の「行動原理」が「普遍的」であるならば、同じ「行動原理」に拠る他者の行動が自己に差し向けられることを受け容れなければならないわけである。

 

こうした相互性を成り立たせるためには――あるいは、相互性を成立たせてゆく過程においては――自己愛にまみれた独善を排する努力が必要となる。いいかえれば、他者への責任と共感にもとづく社会的な想像力の行使が要請される。すなわち、想像の力を借りた普遍化が求められる。カントのいう「理性」にはキリスト教の神の影が感じられるが、一神教になじみのうすい地域や時代において道徳を探究するには、とりあえず、こうしたスタンスをとるほかない。

 

 

自己の「行動原理」を普遍化するということは、自省をともなう社会的拡張過程にほかならず、その過程で幾多の他者たちが普遍性の試金石として呼び出されることになる。顔を想いうかべることのできる身近な存在から、姿も定かならぬ抽象的存在に至るグラデーションのなかから、さまざまな他者を訪ね歩くようにして普遍化の企ては進行してゆく。この過程は、いささか推敲の過程に似ている。

 

カントの表現は厳密さを期するあまり、まわりくどく分かりにくい。しかし、たとえ即座に理解できないとしても、なんとか理解しようとあれこれ考えをめぐらせるならば、カントの想い描く道徳へと徐々に接近することができるにちがいない。あるいは、こういってもよい。この模索が道徳性を喚起し、自己の「行動原理」に対する反省を促すのだ、と。自省的に普遍化を探究することは、自己の「行動原理」を批判的に修正してゆくことでもあるだろう。

 

「普遍的」であろうとして模索をつづける構えと「行動原理」にかんする反省の重要さは、アイヒマンがイェルサレムにおける裁判で、自分はカントの道徳の格率に則って生きてきたと証言したことに見てとることができる。普遍化の努力と反省のないところではチェック機能は空転するほかなく、その結果、独善性がまかりとおることにもなるのだ。

 

2022年6月22日

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摘読録ーーMy favorite words 第41回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

我れ其れ風と為[な]らん哉

――中江兆民『三酔人経綸問答』(1887)

 

『三酔人経綸[けいりん]問答』は三人の酔っ払いが国家の有りようについて語り合うという意味である。大の酒好きだった中江兆民に如何にもふさわしい題名だ。

 

ある日、「南海先生」のもとを訪れた「洋学紳士」と「豪傑君」が議論する趣向で政治談議が展開してゆく。簡単にいえば「洋学紳士」は民主主義を標榜するリベラル派であり、「豪傑君」は侵略主義のスタンスをとる。「南海先生」は両者のあいだにあってリアリズムの立場から仲をとりもつ。

 

この三人は兆民の内なる会話者であって、兆民の思想のダイナミズムを示している。背景となっているのは19世紀末、弱肉強食の帝国主義の時代だ。

 

  

「洋学紳士」は日本社会における「左翼」の原型とも目される人物で、徹底した非戦論の立場から国家の在り方を説いて倦むことがない。たとえば、彼は「自由を以て軍隊と為し、艦隊と為し、平等を以て堡塞[ほうさい]と為し、友愛を以て剣砲[けんぽう]と為すときは、天下豈[あに]当る者有らん哉[や]」という。自由、平等、友愛という大革命期フランスのスローガンを以て防備を固めれば、敵するものがあるだろうかというわけだ。理念を以て武器にかえる発想は、非戦論の極致を示している。

 

だが、この論はかなり浮世離れしてみえる。まんがいち侵略されたときはどうすればよいのかという問いがしぜんと浮かんでくる。「我れ其れ風と為[な]らん哉」は、それに対する彼の答えである。軍備撤廃に付け込んで侵略してくる者があったら、武器を手にせず、一発の弾丸も持たず、礼儀正しく侵略者を迎え入れればいい。そのとき彼らに為す術があるだろうか。「剣を揮ふて風を斬らんに、剣如何に鋭利なるも、風の飄忽茫漠[ひょうこつぼうばく]たるを奈何[いかん]せん」というのだ。わたし(たち)は風になろうではないか、と。

  

こうした考えの根柢にあるのは人間存在の普遍性への信頼であった。紳士は、だから「我れ今日[こんにち]甲の国に居る、故に甲国人なり。我れ明日乙の国に居れば、又乙国人ならんのみ。大劫会[だいごうえ]の期[き]未だ至らずして、我[わが]人類の故郷たる地球猶[な]ほ生活する間は、世界万国、皆我[わが]宅地に非ず乎[や]」というのである。「大劫会」すなわち世界の終末が到来せず、地球が生きてあるあいだは、国境を越えて大地はすべて人間の棲家たりうるというわけだ。

 

  

ウクライナ戦争の現実を思い併せると、「洋学紳士」の主張は取るに足らない理想論にみえる。彼も、このくだりを後段において「弾[たま]を受けて死せんのみ。別に繆巧[びゅうこう]の策[さく]有るに非ざるなり」とパラフレーズしている。

 

しかし、その主張は、同じウクライナ戦争によって力強い現実性を帯びもするのではないだろうか。ウクライナ戦争を介して核ミサイルによる第三次世界大戦の危機に直面している現在、防衛すべき対象は個々の国家などでは、もはやありえないからである。

 

地球のどこかで大規模な核戦争が起こったら、地球は膨大な煤煙に包まれ、大気はブラックカーボンによって汚染される。太陽光がこれによって遮断されるため平均気温は氷河期並みにまで下がり、降雨量も激減する。気温と降雨量が現状に復するまでには、かなりの年月を要する。

 

核戦争後の世界では、したがって農耕が困難を極めることになる。飢餓が全土に広がり、カニヴァリズムが横行するのは必定だ。しかも、放射線による病魔が絶えまなく人間を蝕んでゆく。「大劫会」の到来である。

 

このような状況にあって、核シェルターがいったい何の役にたつだろうか。それは苦痛を長引かせ死期をわずかに先延ばしにするものでしかありえまい。

 

  

ではどうすればよいのか。核戦争に至り着かない工夫をするほかない。

 

「洋学紳士」は、こうも言っていた。

 

僕の意に於て、我邦人が一兵[いっぺい]を持[じ]せず一弾[いちだん]を帯びずして、敵寇[てきこう]の手に斃[たお]れんことを望むは、全国民を化して一種生きたる道徳と為して、後来[こうらい]社会の模範を垂れしむるが為めなり。

 

武器も銃弾も持たずに、侵略者に殺されることを敢えて望むのは、全国民を生きた道徳として未来の手本としたいからだというのだが、このどうしようもない理想主義は、核戦争後の人類の境遇に照らすとき、不思議なリアリティを帯びてきはしないだろうか。護られるべきはこの地球であり、人間の集団なのだ。

 

最後にもうひとつ「洋学紳士」のことばを引いておこう。語釈は省く。ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞を思い出してもらえば、それで充分だと思うので。

 

頭上唯[ただ]青空あるのみ、脚下[きゃっか]唯大地あるのみ。心胸[しんきょう]爽然[そうぜん]として、意気闊然[かつぜん]たり。唯永劫を永[なが]しとして、前後幾億々年所[ねんしょ]なるを知らず。始[はじめ]なく終[おわり]なければなり。唯大虚[たいきょ]を大[だい]なりとして、左右幾億々里程[りてい]なるを知らず。外なく内なければなり。

 

ジョンとヨーコの “Love & Peace”という能天気ともみえるスローガンは、「核抑止」信仰の愚劣さと釣り合っている。

 

 

  

※末尾の引用文にある「闊」は、原文ではサンズイを付す異体字。

 

 

2022年6月8日

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摘読録ーーMy favorite words 第40回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

おまえとこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。

――フランツ・カフカ/池内紀訳「アフォリズム集成」(1918)

 

「この世」とは人間が生きる場というほどの意味である。場というのは、たんなる物理的空間ではない。そこでは、人と人、人と物、人と事、物と物、事と事とが、人間のさまざまな行為を介してかかわりあい、それによって複雑な意味連関を形成している。そういう入り組んだ生の場、それが「この世」であり、人間は、そこを離れては生きていけない。というより、人間でありつづけることができない。マルティン・ハイデガーは『存在と時間』のなかで、こうした人間の在り方を「世界-内-存在」と呼んだ。カフカの死と相前後する時期のことである。

 

カフカが書き残したこの逆説は、人間と世界のこうしたかかわりを踏まえるならば、比較的たやすく読み解くことができる。自分が戦う当の相手である世界に自分自身が取り込まれているのだから、戦い続ける自分であるためには、けっきょくのところ世界に味方するほかないという理屈である。

 

ただし、この理解は、あまりにも形式的すぎる。ここで目を凝らすべきなのは、こうした窮余の事態そのものだろう。世界に生を託すほかない存在が、その世界に異和をかもすところから、この不条理な事態は生じているのだ。はじめは、ほんの小さな傷のようなものだった異和が罅となり裂け目となって、世界との確執が深まり、拡がってゆく。疎隔感や息苦しさにふと気づくところから始まり、やがて堪えがたい痛苦の感覚が襲ってくるのである。

 

この痛みは意識の切っ先によってもたらされる。意識は、つねに何ものかへの意識であり、その意識の尖端が世界に差し向けられるとき疎隔感が生まれ、その疎隔感が世界と自己のかかわりの息苦しさに気づかせるのだ。しかも、世界と自己の裂け目は、「世界-内-存在」としての自己を介して世界にも――たとえば近親者のあいだに――痛みをもたらさずにはいない。

 

だが、世界との戦いにおいて世界に味方するというのは、「戦い」をやめることではない。世界を傷つけるのをやめるということではない。人間が意識をもつかぎり、それは不可能だ。「この世に肩入れをせよ」というのは、意識がいやおうなく世界に残す傷を、そのつど癒すということなのだ。

 

傷は致命傷でないかぎり治癒してゆく。積極的な治療が試みられ、自己治癒力もはたらく。そうしなければ世界に膿がまわりかねないし、自己が肉片のように世界から切り捨てられることにもなりかねない。

 

このようにして、ひとはいやおうなく世界に「肩入れ」することになるのだが、しかし、そこには傷痕がのこる。線維組織が盛り上がった瘢痕[はんこん]が出現する。傷の治癒によって世界は傷痕を印づけられ、それによってわずかながら姿を変える。わずかとはいえ傷は「この世」に生まれ死んでいった人間たちの意識の痕跡だから、その数ははかりしれない。世界は数えきれない傷痕と未だ癒えざる無数の傷とに覆われている。

 

このアフォリズムは手稿を見ると全文が鉛筆で抹消されているという。カフカは、逆説的なやり方で傷を癒そうとしたのにちがいない。

 

 

2022年5月12日

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摘読録ーーMy favorite words 第39回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

元来国と国とは辞令はいくら八釜[やかま]しくつても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大変高くなつて来るのですから考へなければなりません。

――夏目漱石「私の個人主義」(1914)

 

いまや日常と化したウクライナ戦争の戦況報道は、侵略者による容赦なき破壊と殺戮のテロリズムを朝から晩まで飽くことなく繰り返し伝えている。戦場のありさまを捉えた生々しい映像は視聴者の「道徳」的感情をゆさぶり、記事やアナウンスは「徳義心」を刺激してやまない。たとえば、マリウポリの戦災で死んだ人びとの遺骸が黒い納体袋に収められ、親族に見送られることもなく、共同墓地の塹壕のような穴に次々と投げ込まれてゆくさまを目にするとき強い情動に襲われずにはいない。それにつれて「自由」「民主主義」「人権」あるいは「主権」といった啓蒙主義の置き土産が情動の色合いを帯びて喚起される。

 

ロシアが軍事介入したチェチェン紛争やシリア内戦でも同様の蛮行があったことは知られている。また、焦土と化したマリウポリの光景は、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃、日本軍の重慶爆撃、アメリカ軍による東京大空襲、NATOのコソボ爆撃へと連想をさそわずにはいない。「低級な道徳」にもとづく国家の「無茶苦茶」は今に始まったことではない。歴史にその例はいくらでも見いだされる。にもかかわらず、ウクライナ戦争における悲惨は、それらの先例を差し置いて特段に強い情動を誘う。これは、たんに現在の出来事だからというだけのことではない。おそらくSNSによるところがきわめて大きい。

 

SNSを介して、戦場からリアルタイムで送り届けられる動画は、揺れ動くフレームのなかに暴力性と身体性とをはらんで情動とも道徳意識ともつかぬ想いを鋭く喚起する。SNSはまた、ジャーナリストたちが命がけで取材した情報をシェアすることで、その影響力を増幅している。映像のリアリティは、フェイクニュースやプロパガンダによって至るところで綻びを生じているものの、それじたいが戦争のリアリティとして訴求力をもつ。

 

戦争は侵略者たちの道徳意識をも屈折したかたちで喚び起こしている。彼らは道徳意識と無縁の構えをとっているわけではない。みずからへの非難をかわすための口実あるいはカモフラージュとして道徳を利用している。病院や民間人の避難所に対する攻撃を指弾する声々に対して、それがどうしたと開き直るのではなく、攻撃しているのは偽装された軍事拠点であって、民間人を標的にしてはいないと繰り返し主張している。つまり、みずからの行為の道徳的正当性を言い立てている。

 

 

厄介なのは、啓蒙思想に端を発する近代の価値観を蹂躙するロシアの行動が、冷戦体制崩壊後の世界を駆動してきた新自由主義[ネオリベラリズム]の似姿のように見えることだ。たとえば徴兵された若者たちを消耗品のように戦地に送り込むロシア軍の発想は、人間を「資源」として扱ってきた新自由主義の発想と異ならない。ロシアの若い兵士たちは日本の非正規労働者たちの姿に重なって見える。そこには非人道性という共通点が見いだされる。

 

いわゆる「西側」諸国の言論は、しばしば、この戦争について自由民主主義と専制主義の対決というお決まりの構図をもちだすが、新自由主義の蜜の味を知った口がそれについて語るとき寒々とした滑稽さを免れない。民主主義が専制政治を生み出すアイロニーはさておき、新自由主義の支配するところに民主主義は成り立ち難いからだ。

 

人間社会を市場に委ねる新自由主義は、「自由」の焦点を市場経済に絞り込むことで啓蒙思想に由来する理念的豊かさを削ぎ落し、経済格差によって中間層が衰亡するに任せて「平等」の理念を骨抜きにし、非正規労働者の過酷な生が物語るように「人権」をないがしろにしてきた。産学連携を既定のこととして高額な研究費で大学を釣りあげようとする「国際卓越研究大学法案」にみられるような学術研究への市場原理の導入は、「理性」という啓蒙主義の根幹への侵害にほかならない。

 

そのうえ、新自由主義は新保守主義と相携えることでカビの生えた道徳観や民族意識の復活を促してきた。これを経済格差による社会の分断に対する備えとみることが可能だとしても、国家の介入を可能な限り抑制したい新自由主義の構えからすれば警戒すべき発想であるにちがいない。とはいえ、ナショナリズムや道徳にかんする権力の介入は、啓蒙主義への背反という点で新自由主義と軌を一にしている。人びとの内心への介入は「寛容」という啓蒙主義の掲げた美徳の否定にほかならないからだ。このような状況において自由な意志にもとづく民主主義が成り立つ余地を見出すのは難しい。新自由主義は「民主主義」の危機を醸成してきたのである。

 

 

新自由主義が推し進めるグローバリゼーションのもとにあって、市場原理主義の非人道性に対抗する思想を練り上げ、鍛え上げる努力が為されなかったわけではない。しかし、それを社会的に定着させることができぬままに、今日に至った感を拭い難い。グローバリゼーションと足並みをそろえたインターネットの拡がりは、近代を脱却する動きを急激に加速したものの、啓蒙主義的理想に取って代わる脱近代の思想が、あらたな価値観や道徳意識を社会に定着させえたとはいいがたい。日本社会をかえりみれば、それに取って代わるべき近代の価値観や道徳意識が社会的に定着していたかどうかさえも疑わしい。

 

たとえば、このたびの戦争は生存権、自由権、幸福追求権など「自然権」と称される諸権利を、あらためて思いおこさせる契機となったが、わたしたちは、それらの権利を、また、それらを支える思想や道徳観念を、自明のこととして美辞麗句のなかに封印してきたのではなかったろうか。それらの権利の淵源について、あるいはその正当性について――「義務の首位性」(V.ジャンケレヴィッチ)という想念に至り着くほどに――深く思いをめぐらす思想的営為が、いったいどれほどあったろうか。人間の価値が資源価値として量られ、芸術的価値さえも貨幣価値で量られる時代のなかでこそ、それが問い直されてしかるべきであったと思われるのだが、その日月をわたしたちは、はたしてどのように過ごしてきただろうか。高踏的な理論は別として、なにげない日常のことばで――ということは、つまり美辞麗句の封印を解くようにして――このことについて沈思することが、いったいどれほどあったろうか。お定まりの批判は別として、状況の痛点を衝くリアルなことばを、わたしたちは有しているだろうか。みずからを省みて忸怩たる思いを禁じ得ない。

 

ウクライナ戦争が、あらためて突きつけて来る戦争の野蛮と卑劣、それとの対比において道徳主体としての自分自身を省みること、つまりは戦争を自分自身の問題として捉え返すこと。続々と送り届けられる彼の地にまつわる情報に接する日々にあって、漱石のこのことばは、そう促しているように読める。国家の「低級な道徳」に対して、お前の道徳は果たして高い水位を保ちえているか、と。蛮行を「最も強いことばで非難する」のだとして、その「ことば」とは――憲法9 条を踏まえたものであることは当然として――いったいどのようなものでありうるのだろうか、と。

 

この問いかけは切実だ。核戦争にもつながりかねない戦況が、事柄を自己の問題として捉える切実さを、SNSのリアルな動画と相俟って強化している。

 

 

ロシアと、それを非難する西側諸国の鏡像的相似性は当然のことと思われないでもない。そもそも、1991年にソヴィエト連邦が解体されたのち、ロシアもまた新自由主義[ネオリベラリズム]が駆り立てるグローバリゼーションの動きに呑み込まれて今日に至っているのだ。人権や人道を踏みにじっていないと侵略者が抗弁するのは、グローバリゼーションにおける経済ネットワークから疎外されることを怖れるからだろう。

 

だが、事柄は、もうすこし複雑な様相を帯びている。

 

1990年代にアメリカ主導のグローバリゼーションによって憂き目をみたロシアは、2000年代に入るとプーチン政権が国家による市場への介入を強めることで活気立ち、それと並行して権威主義的な政治へと急速に傾いていった。これは、市場への政治の介入を嫌い、「小さな政府」を標榜する新自由主義に対抗する姿勢にほかならない。しかも、それがグローバリゼーションの経済ネットワークの内部での動きであることが、さきにみたような厄介な状況を形成したのである。

 

とはいえ、西側諸国においても、2000年代に入ると、リーマン・ショックを契機として新自由主義の市場原理主義に対する不信がひろがりをみせ、政府による市場への介入が行われるようになる。また、これと相前後してポピュリズムと権威主義が競り合うようにして台頭してくるのだが、そうした動きのさなかで到来したのが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックだった。市場原理では抑えようのないパンデミックは、「小さな政府」を標榜する新自由主義の脆弱性を決定的なかたちで暴き出し、「大きな政府」が――あるいは政治の介入が――翹望されることとなった。地球温暖化対策という国際問題も、その動きを加速した。

 

こうして急場しのぎに政治の発動が要請されることになったわけだが、「小さな政府」に甘んじてきた政治が、あたふたと試行錯誤を繰り返しているあいだに、状況の虚を衝くようにして、このたびの戦争が始まったのだった。

 

ただし、事柄は自由資本主義か国家資本主義か自由民主制か権威主義体制かといった体制的次元にとどまるものではない。また、単純な善悪二項対立で済む事柄でもない。

 

 

グローバリズムとロシアの関係は、ヨーロッパをモデルとする近代化とスラブ的なものの確執を抱え込んできたロシア近代の繰り返しのようでもある。ナポレオンのフランスと、ナチスドイツに侵攻された記憶はNATOへの警戒心とまちがいなく連動している。ウラジーミル・プーチンの発想に「大ロシア主義」あるいは「汎スラブ主義」への思いが見え隠れしている理由も、おそらくここにある。プーチンは西側の新自由主義に取って代る普遍的価値を宣布しようとしているのかもしれないのだ。とはいえ、それが「大ロシア主義」という大国主義的パターナリズム(父権主義)に結びつくとき――たとい歴史的経緯に配慮しても――粗暴な独善の誹りはまぬかれない。

 

そればかりではない。そうしたプーチンの言動をロシア正教会がバックアップしている。これは、ロシアにおける皇帝が、実質上、正教会の長であったことを彷彿させずにおかず、このことがウクライナ戦争を深い陰影で包み込んでいる。このたびの戦争をめぐる問題は、どうやら中世にまで、その根を届かせているようなのだ。

 

ロシアと西側諸国のあいだに引かれたスラッシュは、おもいのほか深い亀裂を成しているらしい。しかも、宗教と国家の結びつきは、ひとりロシアにみられるばかりではない。信仰の内面性を脱して宗教と国家が結びあう現象は、政教分離という啓蒙主義の政治スタンスの根本的な見直しを世界各地で迫っている。

 

 

SNSやマスコミが伝える数々の戦争犯罪は、加害者のみならず、それを非難する者たちの道徳意識を批判的に捉え返す契機ともなる。人間の諸権利を踏みにじる陰惨な戦闘の情報は、これまで当然のことと思いこんできた諸権利の場に、暗くて深い穴が、ぽっかりと口を開いていることに気づかせずにはおかないからだ。

 

この穴は、新自由主義が跋扈したグローバリゼーションの年月に打ち捨てられて顧みられなかった啓蒙主義の置き土産の墓穴にほかならない。それはまた、核ミサイルをたばさむ近代にとっての他者を育んだ闇の領域でもある。

 

この暗くて深い穴を覗き込んでみること。今日の危機にさいして、わたしたちを見舞いつつある出来事を了解するためにまず為すべきことは、これを措いてほかにない。

 

闇を覗き込むとは、探照灯によって闇を掘削することであり、そのあげく思いもよらぬおぞましい光景を目の当たりにすることになるだろう。それはまた、暗い穴の縁であやうくバランスをとっている自分自身の体勢に揺さぶりをかけることでもあるにちがいない。だが、この危うさを受け容れることなく、現在の状況を了解することができるとは思われない。

 

穴の底にうずくまる闇に眼を凝らすことによってはじめて、目の前に立ちふさがる近代の他者を揺り動かす言動に近づきうるのではないかと思う。体制として実体化された思想に混乱を引き起こし、その混乱のなかから未曾有の何かを掴み出す作業こそ思考の名にあたいするということを肝に銘ずるべきだろう。それは独善の愚昧から脱却する道でもあるはずだ。

 

 

蒙昧主義は警戒すべきだし、喧嘩両成敗などと間抜けたことをいうつもりもない。

 

ロシアのウクライナ侵攻は、国際関係における武力行使を禁じる国際法に違反しており、その意味で不当といえる。ウクライナの軍事行動は個別的自衛権の行使であって、国際法に照らして正当性をもつ。しかし、「国際法」に則って事柄を批判するのとは別に、紛争解決に武力行使を禁ずる「法の精神」を成り立たせたさまざまな力のせめぎ合う場へ向けて、すなわち、深い穴の底へと降ってゆくようにして、予断なく思考を推し進めてゆく作業が必要なのだ。この作業は人間という存在が抱える闇の領域へと踏み込むことにほかなるまい。

 

漱石は、人間の不条理性を「底なき三角形」(「人生」1896)に譬えたが、「意識」と呼ばれる三角形の尖端から、潜在意識あるいは無意識へと開かれた不在の底辺へと下降してゆく思考に、戦争を押しとどめる即効性があるとは、とうてい思われない。しかし、いまこのときにあって、戦争が指し示す近代の奈落へと思考を差し向けることは、戦争ののちの世界へと思いを馳せることでありうるはずだ。ヨーロッパ近代の啓蒙主義が掲げた普遍性それ自体をあらためて普遍化する道筋として――近代が掲げた「普遍」概念を、文化的多様性を含み込むかたちで踏み込んで普遍化する道筋として――奈落くだりは避けてとおることのできない試練なのだ。それが啓蒙主義なるものをアップデイトする手立てでもあることはいうまでもない。

 

2022年4月28日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第38回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭 

  

なぜならば、病気というものは、あらゆる経験が明らかにしているように、形容詞なのであって、名詞ではないからである。

――フロレンス・ナイティンゲール/薄井担子、小玉香津子ほか訳『改訂新版 看護覚え書』(1860)

  

ナイティンゲールは、病気は自然の力による「回復過程a reparative process」であると考えていた。症状の悪化にともなう苦痛や鬱情を思うとき、病気を「回復過程」とする見方は奇妙に感じられるが、彼女は自説への反論を予想しつつ次のように書いている。自然の回復過程を阻害することから生ずる苦しみや痛みを取り除いたとき、病気ほんらいの痛みや苦しみが明瞭になるだろう、と。

  

自然の回復過程がまっとうに進行するうえで必要なものとは何か。看護に携わる立場から「患者が呼吸する空気を、患者を寒がらせないで、外気と同じように清潔に保つこと」だと彼女はいう。そして、酸性雨の発見者として知られるアンガス・スミスの大気汚染検査法を看護に応用する可能性にまで説き及んでいる。現在、わたしたちが手にすることのできるコンパクトなCO2濃度測定器は、その一実現形態だ。

  

そればかりか、彼女は換気こそ感染に対する「唯一の防御策」だとも述べている。もちろん、接触感染は換気によって防ぐわけにはいかないのだが、この期に及んで感染症の専門家たちが、新型コロナウイルスのエアロゾル感染に対する注意を喚起し、対策を政府に提言している日本社会の現状を思うとき、彼女の指摘は、にわかに新鮮なリアリティを帯びてくる。

  

  

病気が回復過程であるとする根拠についてナイティンゲールは理路や根拠を示していない。無記の姿勢をとっている。だが、人間の身体にそなわる自然治癒力を思い浮かべれば、この見方は直観的に納得がゆく。

  

しかし、それ以上に重要なのは、病者を孤立させない発想が、ここに認められることだ。病気が回復過程であるならば、病と健康を連続の相で捉えるのは当然であり、じっさい換気にしても、病者にのみかかわる注意事項ではない。健康な人間の日常においても重視されて然るべき事柄だ。しかし、この当たり前のことにかんして、自分たちが意外と無神経であったことをCOVID-19 の経験は教えてくれた。

  

子どもや老人たちのように特段の配慮を必要とする人びとの日常にかんしては、ことさら換気と室温への配慮が重要であるのはいうまでもないが、これを実行するためには、なによりもまず見守るという行動が必要となる。冒頭のことばは、このような構えから発せられている。見守るべきは、「痛い」「苦しい」「辛い」「寒い」「暑い」などの「形容詞」を喚起する兆候だからである。

  

  

では、「名詞 noun substantives」とは、いったい何を指すのだろうか。まずは病名と理解するべきだろうが、彼女は病名の背後に実体的な病因を想定する発想を否定している。「なぜならば」の前のところに彼女は「いろいろな病気が発生し、成熟し、そしてそれが他の病気に変化していく」のを目にして来たとしるしており、病気というのは猫や犬のような実体ではないというのだ。

  

病原体という存在が知識として念頭にある者からすれば、原因としての実体を否定する発想には違和感を覚えざるをえない。しかし、『看護覚え書』が 出版された時代は(初版1859)、微生物を病原とみなす細菌学の黎明期にあたっていたことを思えば、ナイティンゲールの病理観は、やむをえない歴史的限界として理解できるし、『看護覚え書』の数年後に刊行された『病院覚え書』(1863)では病原菌の存在を認めてもいる。

  

揺れがみとめられるわけだが、この揺れは“care”と“cure”のあいだの揺れのようにみえる。“care”は「世話」「配慮」「保護」「介護」「看護」などに対応する語であり、外来語「ケア」として日本社会に定着している。“cure”は「治療」「医療」「矯正」「治癒」「回復」などの語に対応し、外来語の表記は「キュア」である。

  

ナイティンゲールの知見は、「ケア」と「キュア」のあいだで、ただし、思いを大きく「ケア」へと傾けながら揺れているのだ。

  

  

病気というものは、病者自身の受苦の意識も含み込む複雑な関係態であって、それを単一の実体に帰するのはむつかしい。このような病気の有りようを、「ケア」と「キュア」という概念で捉え返すならば、キュアに従事する者は、病原体はもちろん器質的変化の有りようなど「名詞」的実体性の方により強い関心を抱くだろうし、ケアの実践においては、先にもみたように、なによりもまず容態を示す「形容詞」的次元に注意を向けることになる。ナイティンゲールは、この両者に目を配りつつ思考を重ねていたがゆえに揺れが生じたのである。

  

ただし、揺れとはいいながら、“care”と“cure”という二つの語の『看護覚え書』における出現度は“care”の用例が圧倒的に多く、ここにも彼女の関心の焦点がケアにこそあったことが示されているのだが、彼女が健康人と病者をひとつづきの過程として見ていたのは、まさにケアへの関心ゆえのことであった。彼女は、こう書いている。

  

患者にどのような結果が生じるかについて正確な判断を下す能力があるかどうかは、その患者が生きているすべての状態についての探究のいかんにかかっているのである。

  

「その患者が生きているすべての状態」に対する見守り。これがケアの要諦であることはいうまでもないとして、このくだりの直後で、彼女は大都市の複雑きわまりない社会状況に言及している。ナイティンゲールに即して考えるならば、ケアとは、このような社会的広がりのなかで捉えられるべきものであり、しかも、それは時間的な広がりでもある。すなわち、ケアはキュアのはるか以前から、また、キュアののちまでも続いてゆく一連の社会的な過程なのだ。たとえば社会的に弱い立場に立たされがち老人や子どもたちは、つねひごろから特段のケアを必要とするわけだし、また、不治の診断をくだされた病者のようにキュアののちにもケアは続いてゆくのである。

  

このような見方に立つならばキュアというのは、ケアの一過程ということになるわけで、こうした認識は、医療現場における「対等-従属 equal-subordinate」弁証法の問題――すなわち組織上は対等であるにもかかわらず現場において看護師が医師の下位におかれがちな現状に対する批判的視座をも提供するのにちがいない。それはまた、訪問介護が医療の重要な一次元を成すに至った超高齢社会の現状にとっても重要な問題提起となるはずだ。

  

  

この本で「看護」と訳されている元の単語は“nursing”である。“care”が“nursing ”と重なる意味合いで用いられている箇所もみられはするものの、基本的に“nursing”が「看護」に対応している。

  

しかし、ナイティンゲールは“nursing”という語に必ずしも満足してはいなかった。「私はほかによい言葉がないので看護という言葉を使う」と、はっきり書いている。薬の投与や湿布を貼る程度の意味で用いられていた“nursing”という語に違和を覚えた彼女は、その再定義を本書で企てたのだ。

  

「看護」を「ケア」と呼びかえ、高齢社会において注目度の高い“care ”という単語に繋げたのは、だから、本書の企てへの加担でこそあれ、けっして、それを歪曲することではない。あるいは、踏み込んでいえば、このようにいうことも可能だろう。“care”こそ“nursing ”の本体なのだ、と。

  

  

 

 

2022年3月9日
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