先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第12回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

運命は従ふものを潮にのせ 拒むものを曳いて行く。

――ラブレー/山田珠樹訳  

  

シャルル・ヴィルドラックが、戯曲「商船テナシティー」でエピグラフとして引いた言葉である。この戯曲が1934年にジュリアン・デュヴィヴィエによって映画化され、日本で公開されたとき、そのポスターに、この言葉が惹句として引用され、その後、日本社会で広く知られるようになった。

  

原書では“Les destinées meuvent celui qui consent, tirent celui qui refuse.”としるされているこのエピグラフには、たんにラブレーからの引用であることが示されるのみで、日本語訳(創元社文庫版)にも出典は明記されていない。そこで、出典をつきとめるべく、ラブレーといえば『ガルガンチュワとパンタグリュエル』であろうと当たりをつけて、渡辺一夫の訳による岩波文庫版の頁を繰ってゆくと、第5の書第38章の末尾に次の言葉がしるされていた。“DVCVNT ・ VOLENTEM ・ FATA ・ NOLENTEM ・ TRAHVNT”。これは、パンタグリュエルたちが訪れた「徳利明神」の寺院の扉に刻まれていた「古代ラテン語」の碑文で、渡辺は、これに「宿命ハ諾[ウベナ]ウ者ヲ動カシ、拒ム者ヲ牽ク」という日本語を当てている。

  

ようするに、如何にしても運命には逆らえないということであり、別段どうということもない格言にすぎない。仏語訳も同様である。しかし、山田珠樹の日本語訳は、たんなる格言に終始してはいない。「潮にのせ」という意訳には倍音が響いている。ここにはニーチェのいう「運命愛」の音色が感じられるのだ。「運命愛」は、ニーチェの思想の要ともいうべきもので、生成流転する現実世界を――それが、どれほど悲惨なものであったとしても――あるがままに肯定し、自分自身の運命として積極的に受け容れる構えのことだ。

  

「潮」とは、ヴィルドラックの戯曲に即していえば、失恋と裏切りによる傷心をかかえてフランスからカナダへと大洋を渡る移民労働者の若者の姿を暗示する表現であるのだけれど、「潮にのせ」という文節には譬喩にとどまらない感覚がある。すなわち、陽光のなかに高々と差し上げられるような晴朗な昂揚感がみなぎっている。こうした昂揚感は、「従ふ」という語を、忍耐とか不屈の類義にとどまらせることなく、ポジティヴな意志の力によって満たしてもいる。

  

戯曲自体はニーチェとは無縁のセンチメンタルな物語であるものの、山田珠樹がスタンダールの研究にいそしんだひとであったことを思うならば、スタンダールを重視したニーチェの影をここに見出すのも、あながち牽強付会とはいえないだろう。

  

 

2017年9月11日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第11回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。 

――内村鑑三「後世への最大遺物」(1925)より

  

「遺物」はmemento、すなわち「形見」。 

  

高尚さと勇ましさは、相携えなければ価値を発揮しがたい。高尚さをともなわない勇ましさは、しばしば粗暴であり、勇ましさをともなわない高尚さは、しばしば単なる非情に陥る。

  

しかし、いまや「勇ましさ」と「高尚さ」は人生の美徳たりえない。それらは、ひとを世の中から浮き上がらせずにはおかないからだ。独善的な恨みと自省なき妬みに充ちたこの格差社会において、「勇ましさ」や「高尚さ」は憎悪の標的にされやすい。それを美徳とみなすのは自死を決意したテロリストくらいのものかもしれない。内村が称揚するような生き方は、時代から大きくズレてしまった。それは文字通り「遺物」と化したかにみえる。

  

とはいえ、「勇ましさ」とも「高尚さ」とも無縁な生き方を淡々と続けてゆくことこそ勇ましく高尚な人生であるということもできないではない。時代おくれの美徳を現代によみがえらせるには、逆説のとんぼ返りをやってみせる必要があるのだ。

  

阿久悠の歌詞ではないが、ねたまず、あせらず、目立たぬように、はしゃがぬように生きてゆくのは並大抵のことではない。そのためには、世の愚劣に取り巻かれながら、それに迎合することなく、自己を励まし自己を抑えて生きてゆかなければならない。いまや「勇ましい高尚なる生涯」は、いかにもそれらしい言動においてではなく、むしろ、黙して語らぬ背中にこそみとめられるはずのものなのだ。

  

  

2017年8月2日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


「TOKYOオリンピック物語」(野地秩嘉、2011年)

アート・デザイン表現学科 非常勤講師

山嵜一也

 

 敗戦国日本の復興を世界へと知らしめた前回1964年の東京オリンピック。本書は奇跡といわれた大会の成功のために、あらゆる業界を陰で支えた関係者のたゆまぬ努力を描いたノンフィクション作である。

 

 大会の記録メディア、食事、警備、映像など専門的になりがちな内容を平易な筆致で綴られる本書であるが、アート・デザインを専攻する女子美生に読んで欲しい章は2つ。今や昭和のアイコンとも言える大会エンブレムについて綴られた「赤い太陽のポスター」(1章)と、今日の公共空間で私たちが目にする「ピクトグラム」(6章)の誕生秘話である。

 

 特に後者では、東京オリンピックのデザイン責任者・勝見勝がピクトグラム制作の作業完成後にチームのメンバーに“ある契約書”を渡すというシーンがある。勝見はピクトグラムの仕事を日本人の仕事ととして社会に還元、普及させるべきだと考え、その後、日本のデザイン界を牽引することになる若き精鋭たちに“著作権契約放棄”のサインを求めたのだ。デザイナーたちは戸惑いながらもサインに応じた。もし、この時、勝見を含めた彼らが自分たちの利益を優先していたならば、今日、私たちはこれほど多くのピクトグラムを街で目にすることはなかっただろう。

 

 この英断からもわかるように本来、オリンピックというものは国を挙げて開催されるものであり、社会のために、次世代のためのイベントであることをこの本では再確認させてくれる。

 

 2020年のオリンピックを迎える東京で学ぶ女子美生には、エンブレム問題、競技場問題など社会とアート・デザインとの関わりを突きつけられているいまこそ読んで欲しい書である。2017年度「アート・デザイン表現演習Ⅱ」【オリンピックコンテンツ表現演習】の参考図書。

 

2017年7月25日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第10回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

この比[ころ]よりは、大方、せぬならでは、手立てあるまじ。麒麟[きりん]も老いては駑馬[どば]に劣ると申す事あり。さりながら、誠に得たらん能者[のうしや]ならば、物数[ものかず]はみなみな失せて、善悪見所は少しとも、花は残るべし。

――世阿弥『風姿花伝』(1400頃)より

 

「年来稽古条々」の「五十有餘」すなわち老年にかんするくだり。

 

現代語にすると、以下のようなことが述べられている。この年齢くらいからは、おおかた、何もしないというほかに手立てはあるまい。獣類の王者である麒麟も老いれば、足の遅い馬にも劣るということわざがある。とはいえ、ほんとうに芸を身につけた役者ならば、とりたてて数え上げるような演技が全く見られず、よきにつけあしきにつけ目を引くところが少なくなってしまっても、花だけは残るだろう。

 

世阿弥の父観阿弥は数えの52才で亡くなったが、死の直前に駿河の浅間神社[せんげんじんじゃ]に能を奉納した。世阿弥はそれについてこう書いている。「能は、枝葉も少なく、老木[おいき]になるまで、花は散らで残りしなり」、と。

 

ひるがえって美術の現在に眼を移すと、たとえば現実への介入を目指すいわゆる「アート・アクティヴィズム」や「記憶アート」のなかには、ひたすら「実」を追い求める発想が、しばしば見てとられる。そこにおいて「花」は飾りにすぎない。「花」と「実」が分離されている。しかし、「実」は――「無花果[いちじく]」と称されるケースにおいてさえ――「花」無くして結ばれはしない。だから「花」とは別に「実」を追い求めるとすれば、それは愚の骨頂というほかない。

 

かつてポール・ヴァレリーはこうしるした。内容と呼ばれているものは不完全な形式にすぎないのだ、と。「実」とは「花」のひとつのすがたであるべきなのだ。

 

 

2017年7月3日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第9回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペテロが、「先生、群集があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。

――新共同訳『聖書』「ルカによる福音書」8―40より

  

何年も出血が止まらない女性がいた。治療のために全財産を投げ出したが病は癒えなかった。奇跡を行うイエスの評判を聞いた女性は、群集に混じってイエスに近づくと、声もかけずに、そっとイエスの服に触れた。すると、ただちに出血が止まり、彼女は癒やされた。

  

治癒者としてのイエスの面影を、ありありと伝える説話だが、この説話の要点は、治癒そのものよりも、癒されることを求める者に対するイエスの感受性にある。救いを求めておずおずと差し出される手に対してイエスが示した感受性こそ、彼の存在理由にほかならない。それはまた、教師の資質として求められているところでもあるだろう。

  

イエスとペテロ。両者の感受性の異なりは、イエスとイエスの信徒たちとの決定的な裂け目を示している。信徒はイエスたり得ず、それゆえ信徒にとどまるほかない。しかし、イエスへの敬愛と憧憬なくしては、ペテロはペテロでさえありえなかったにちがいない。

  

教師にかんしても、また然り。イエスの感受性を求められながら、すべて教師は、ペテロの裔でしかありえない。それゆえ、教師たらんとする者は――もちろん自戒の念をこめて言うのだが――次のようにおのれを絶えず励まさなければならない。イエスへの――消失点としての善き理念への――接近の意志を措いてペテロはペテロたりえないのだ、と。

  

  

2017年5月29日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


ヘビを助ける物語について

芸術文化専攻 助手 中島彩花

 

修験道の聖地・熊野に通じる山道を、一人の修行僧が血相を変え、荷物も放り出し、転がるようにして駆けていきます。

 すれ違う参詣人たちが、一体何事かと怪しんでいると、後からもう一人、女が走り過ぎていきます。髪と衣を振り乱し、草履を脱ぎ捨て恥も外聞もなく。

 僧は、この女から逃げていました。女は、「修行が終わったら自分に会いに来る」という約束を破ったその僧を追いかけていました。

 

「あな口惜しや。いちどでも、われ此の法師を取つめざらん限りは、心はゆくまじきものを」

 

 美しかった女の顔が、次第に獣のような形に変化していきます。やがて口から火を吐き、蛇頭人身の姿となり、ついには、まがまがしい「大毒蛇」へと変身してしまうのです。

 

 これは、紀伊国(現在の和歌山県)にある道成寺というお寺の伝説を描いた、『道成寺縁起』という絵巻の一場面です。

 恋心を裏切られた怒りによって大蛇に変じた女と、追われる僧との何十キロにも及ぶ追跡劇は、僧が逃げ込んだ道成寺で決着を迎えます。

僧は寺の人々に訳を話し、大きな鐘の中にかくまってもらいますが、その鐘に取り付いた大蛇によって焼き殺されてしまいます。大蛇が火を吹きながら鐘に巻きつく場面は、この絵巻のクライマックスともいえるでしょう。

 

しかし、物語はまだ終わりません。

数日後、道成寺の老僧の夢の中に、二匹の蛇が現れます。

そのうちの一匹が、「わたしは鐘の中にこめられた僧である」と名乗ります。そして、「悪い縁によってこの女と夫婦になって蛇に生まれ変わってしまった、どうか成仏できるようにお経を写して供養してほしい」と頼むのです。

 絡み合った蛇は、あの恐ろしい大蛇の姿とは違い、何だかちんまりとしていて哀れな様子です。

老僧はすぐさま道成寺の僧侶たちに呼びかけ、みなで『法華経』というお経を書写して、二人を供養します。金や色とりどりの仏具で装飾されたお堂の中で、何人もの僧侶がお経をあげ、赤い蓮の花びらを散華します。

 女と僧の逃走劇の長さには及びませんが、大蛇が這いずり鐘を焼き尽くす場面と同じくらいのボリュームと気合いをもって、この写経供養の場面は描かれます。

 甲斐あって、次の場面では再び老僧の夢に、今度は天人の姿となった二人が訪れ、苦しみから救われたことが示されます。

 

 この絵巻自体は室町時代に描かれたものですが、恋の空回りの果てに女性が大蛇と化し、修行僧を追いかけたあげく道成寺の惨劇に至る、という物語は、遅くとも平安時代中期には生まれていたようです。

 のちには能、浄瑠璃、歌舞伎などでも演じられるモチーフとなっていきますが、ここでは平安時代末期にさまざまな説話を集めて成立した『今昔物語集』でのあり方を見てみましょう。

 

 『今昔物語集』巻十四の三番目に収録されたこの物語のタイトルは、〈紀伊国の道成寺の僧、法華を写して蛇を救える語(こと)〉となっています。

 つまり〈女、蛇と化して僧を追う語〉でも〈僧、女に追われ鐘の中で焼け死ぬ語〉でもなく、道成寺のお坊さんが蛇となった二人を救済すること、がこの物語の主旨であるようなのです。

 

 もちろんそこには、『今昔物語集』の編集者の意図があります。

 実はこの巻十四には『法華経』やその他の経典がどれだけスゴイものか、をあらわす仏教説話が集められているのです。

 なので、同巻の目次を眺めてみると、〈キツネを救うために法華経を写した〉〈勝陀羅尼経の力で鬼の難からのがれた〉〈弘法大師が請雨経の力で雨を降らせた〉などのタイトルがずらりと並んでいます。

 中でも〈道成寺〉のお隣、二番目の〈信濃守(しなののかみ)、蛇とねずみとのために法華を写して苦を救える語〉は面白い話です。

 

 ある時、信濃守(信濃国の行政官)が任期を終え、部下たちを従えて京の都に戻る道すがら、大きな蛇がついてきます。一行が停まれば蛇も停まり、夜には衣類を入れた櫃(ひつ)の下でとぐろを巻いています。

 やがて信濃守の夢に、まだら模様の衣を着た男、すなわち蛇が現れ、こう告げます。

「私の長年の怨敵が、あなたの櫃の中にいる。その男を殺すために、私はあなた方についてきているのだ」

 目覚めて信濃守が櫃を開けてみると、底には老いたねずみがいて、たいそう怯えた様子で逃げもせずに小さく丸まっています。

「捨ててしまいましょう」と部下たちは言います。

 信濃守は首を横に振ります。

「捨ててしまえば、このねずみは蛇に飲み込まれてしまうだろう。蛇もねずみも、救いたい」

 そして、〈道成寺〉同様、『法華経』の写経供養をその場で営むことにするのです。

 文章はこう続いています。

 

 共の多くの人、手ごとに書く間に、一日の内に皆書き出し奉りつれば、即ち具せる所の僧を以て、もっぱらに彼等が為に、法の如くに供養し奉りつ。

 

 蛇とねずみのために、何人もの人が手分けをして写経をしています。同行していた僧侶にお経をあげてもらい、きちんと作法にのっとって儀式をとり行います。

 短い文章の中に、まるで町内会のお祭りのように人々が協力しあう、にぎやかでほのぼのとした情景が浮かび上がってきます。この物語でも、蛇とねずみはその夜、美しい衣を身にまとった二人の男の姿で信濃守の夢に登場し、

「我々は敵同士として生まれ変わっては殺し合ってきたが、あなたが慈しみの心で供養してくれたおかげで、苦しみの世界から救われた」

 と礼を言って天に昇っていきます。

 ここでは、経典の力だけではなく、「助けよう」と思った信濃守の心が救いをもたらしたことがはっきりと示されています。

 

 わたしたちの暮らす現代社会では、人間が大蛇に変身したりしませんし、蛇やねずみが話しかけてきたりもしません。お経を写して助けてあげる、というのも、あまり現実味は感じられません。

 けれども、怒りや不安その他のネガティブな感情でいっぱいになってしまって、あるいは自分ではどうにもできない状況に追い込まれて、苦しむ、ということには誰しも身に覚えがあるはずです。

 ここで紹介した絵巻や説話は、そういうわたしたちに、まず「助けて」と言えばいいんじゃないの、と語りかけてきます。

 〈道成寺〉の大蛇も、あるいは「助けて」と思っていたのかもしれません。でも火を吹いて怒り狂うだけでは周囲に伝わらないし周りもどうしようもないし、結局好きな男ともども自分を焼き尽くしてしまいました(個人的には、男のこともほんとはそんなに好きじゃなかったんじゃないかと思います)。

 なので、ヘビやねずみや、カニやうさぎのように正直に、しょんぼりした顔で「困っています、助けてください」と。

 そのあとは助ける人の物語です。「迷惑をかけるのでは」などと心配がらず、また結果に期待はせずに。それでもし助けてもらえたら、きちんとお礼を言えばいいのです。

 記され描かれてきた物語というものは、何百年たっても変わらない人間の悩みと、それに対する答えを含んでいるようです。

 

【ここで紹介した物語が読める本】

続日本絵巻大成13『桑実寺縁起 道成寺縁起』小松茂美編、中央公論社、1982年

続日本の絵巻24『桑実寺縁起 道成寺縁起』小松茂美編、中央公論社、1992年

新日本古典文学大系35『今昔物語集 3』池上洵一校注、岩波書店、1993年

 

2017年5月2日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第8回

女子美術大学図書館 前館長 北澤憲昭

  

戦争はいたるところに在る。戦争があるとき、それはつまり何ものかが出現しつつあるということだ。

――ル・クレジオ/豊崎光一訳『戦争』(1970)

  

1968年パリの5月革命の2年後、反戦運動が盛り上がり、ヴェトナム戦線からアメリカ軍が撤退を開始する2年前にあたる当時の状況が、「戦争」というタイトルに影を落としているのはまちがいない。引用部分につづけて、ル・クレジオはこう書いている。「噴火山があちこちの広場のまん中にもち上り、道路の数々が口を開け、そして割れ目の奥から、溶岩や、熱気や、エネルギーが迸る。海は崖の足下に沸き立ち、響き高い洞窟を掘りさぐる。蒸気が、電気が、雲が、稲妻がある」、と。ル・クレジオの戦争のイメージには天地創造のイメージが重なっている。あるいは、破壊と創造とをつかさどるシヴァ神へと想いを運ぶ。

  

本書の最後には19枚の写真が掲載されている。スーパーマーケットの一角や、車のライト、中空[なかぞら]を行く飛行機・・・・・などの写真だが、1970年当時の文芸界にあって、このような試みは、とても新鮮だった。ソフィ・カルの『ヴェネツィア組曲』の10年前、ジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が刊行される35年前のことだ。

  

どの写真もクールで、寡黙でありながら、身体にまつわる位置感覚を湛えるスナップショットの魅力にあふれていた。蒸気も、電気も、稲妻もない世界が、無傷なままに、それゆえ無気味に映しだされていた。

  

ル・クレジオは、あるインタヴューで、何千枚もの写真を撮りながら『戦争』を書いたのだと明かし、いくつかの章は街中で書いたとさえ言っている。写真は、自分が「そこ」にいたという確認であり、証明でもあるのだ、と。空の高みを行く飛行機は、わたし(たち)の眼を作者の眼へと重ね合わせ、読者を「そこ」へともたらさずにはいない。

  

マダラ状に広がる戦場のなかから、大規模な戦争があらたに開始されそうな予感の漲るこの時代の風が、この本を、書庫からぼくの机の上に運んできた。

  

  

2017年4月21日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第7回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

犀の角のようにただ独り歩め。

――『スッタニパータ』中村元訳

  

「スッタニパータSutta Nipāta」は上座部仏教(小乗仏教)のパーリ語経典である。

  

犀の皮は、あらゆる動物のなかで最も堅いといわれ、肉食獣の牙や爪から身を守る鎧の役割を果たしている。そのためか、犀は単独で行動する。上に引いた言葉が、こうした犀の習性に由来するのはいうまでもない。ただし、経典には「犀のように」と書かれてはいない。そこには「犀の角のように」とある。なぜだろうか。

  

視力の弱い犀の視線は遠くまでとどかない。しかし、鼻先の角は、しっかりとらえているにちがいない。鼻先に突き出た角は、犀の巨体が前進する指針の役割を果たしているかにみえる。「犀の角のように」というのは、おそらく、このことにかかわっている。

  

犀をみちびく指針としての角は犀自身に属している。すなわち犀の意識の尖端は犀自身に集中している。経典の言葉の焦点はここにある。思うに、このことばは「梵我一如[ぼんがいちにょ]」――宇宙の支配原理である「梵Brahman」と、個々人の支配原理である「我Ātman」とが、ひとつであって、ふたつではない――という教義にかかわっているのだ。

  

「独り」というのが身体的な事柄でないのはもちろんのこと、それは精神的孤独という意味でさえない。このことばは、宇宙と自己がひとつであるということを、したがって孤独が「孤独」でありえないことを示している。

  

犀は、みずからの角を指針として歩みをすすめる。しかし、その角は犀自身を遥かに超え出るものと繋がっている。「ただ独り」歩む犀の姿は、だから、近代的な「主体」概念では捉えきれない。それは、別の主体のありようを暗示している。英訳の『スッタニパータ』を読んだニーチェが、1875年の書簡でこのことばを愛用語として引用しているのも納得がゆく。

  

  

2020年9月29日改稿

2017年3月31日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第6回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

 

学而不思則罔 思而不学則殆

――『論語』「為政第二」より

 

現代日本語で言い換えれば、「他から学んだことを自分で思い返し、考えてみることをしなければ、ただのボンクラだ。逆に、自分で思い浮かべたことを信じ切って、他から学ぶことをしなければ、あやまちを犯すおそれがある。」

 

読み方は以下のとおり。「まなびて、おもわざれば、すなわち、くらし。おもいて、まなばざれば、すなわち、あやうし。」

 

自戒の意味も兼ねてしるしとめておくことにした。美術大学というのは「思いて学ばざる」性向と「学びて思わざる」性向とを、ふたつながら矯めるための相教育の場であるべきなのかもしれない。

  

  

2017年3月29日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第5回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

サマルカンドへ行かなかったときのことを憶えているかい?(中略)ぼくはあの旅を、決して忘れることのできない想い出として、それもすごく鮮明で、すごく詳細で、まさに想像のなかで体験したことでなければ残せないようなものとして記憶しているよ。

――アントニオ・タブッキ/和田忠彦訳『いつも手遅れ』より

  

「行かなかった旅」は「書かなかった小説」と対を成す。タブッキは同じ小説のなかに、「空中にだけ存在して、軽く、羽が生えて、つかまえることができず、ちょうど思考のように、存在しないがゆえに自由だった言葉たち」を書き留めて可視化することが、どれほど辛いことかと書きつけている。

  

「行かなかった旅」の想い出は、吉本隆明が自他に投げかけた次のような問いを思い起こさせずにはおかない。「かれの〈書く〉ものは、かれにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか?そして、わたしの〈書く〉ものは、わたしにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか?」(「なぜ書くか」)。

  

タブッキの軽快でおしゃれな言葉は、吉本の重く無粋な言葉と確かに「拮抗」している。

  

  

2017年3月22日
Top