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摘読録――My favorite words 第4回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

1915年2月2日

ほんの少しだけ仕事をした。――。

  

1915年2月3日

仕事をしなかった。なにも思いつかない。

――ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン/丸山空大訳『秘密の日記』(1914‐1916)

  

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、24才のウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵として戦場に赴く。そこは「吐き気を催すような環境」であり、「僕の目の届く範囲には、鋭敏なこころはない!!!」ような場所であったが、ウィトゲンシュタインは、こうした劣悪な条件のもとでデビュー作『論理哲学論考』(1922)を書き進めていったのだった。

  

『論考』を読み進めてゆくと、あたかも脳のなかで、すべてが完結してしまうかのごとき印象を与えるが、それを書き進めるウィトゲンシュタインの肉体は「吐き気を催すような環境」に置かれていたのであり、彼はその記録を書き残していた。それは暗号で書かれているうえに、遺稿管理人によって秘匿されていたため、長い間ひとびとの目にとまることはなかった。それが刊行され、ようやく日の目をみるようになったのは、没後40年を経た1991年のことだった。

  

引用部分でいわれている「仕事」は軍務のことではない。論理哲学者としての仕事のことだ。1914年8月21日に艦上で書いた日記に、「僕の仕事はもう完全に出尽くしてしまったのか?!!悪魔のみぞ知る。もう僕は何も思いつかないのだろうか?」とあり、また、1915年2月15日には「昨日は、いくらか仕事をした。論理学のことを一度も考えずに――たとえほんの一瞬にすぎなくとも――、一日を過ごしてしまうようなことはここのところない」と書かれてあることからも、それと分かる。

  

劣悪な環境に抗してウィトゲンシュタインはトルストイとエマソンを読みつつ、自分の「仕事」を為し遂げていったのだが、その間、いくども自殺を思ったという。

  

「――。」は、ウィトゲンシュタインの書き癖。省略ではない。

  

                         

2017年3月15日

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摘読録――My favorite words 第3回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

包帯は仲間の女の子たちと一緒に一ヶ月前から少しずつ集めておいた宝物。それで本格的な花嫁衣裳ができたの。写真が残ってるわ。

――アナスタシヤ•レオニードヴナ•ジャルデツカヤ

  

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによるオーラルヒストリーの実践『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳)に登場する女性兵士(衛生指導員)の発言。戦場で結婚式を上げた彼女は、自分自身のために、一晩かけて包帯のガーゼで花嫁衣裳を縫い上げた。ガーゼが喚起する生理的な感覚と花嫁衣裳のレースの清爽感とが相俟って生み出す不思議なモアレが心に影を投げかける。

  

ロシアでは第2次世界大戦で百万人を越える女性が従軍したが、その実態は国家によって伏せられたまま長い年月が流れた。それを初めて明るみに出したのが、1997年に出版されたこの本だった。

  

アレクシエーヴィチは、2015年にノーベル文学書を受賞した。

  

  

2017年3月8日

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堀辰雄『美しい村』

共通専門 助教 佐藤紀子

 

タイトルの響きに惹かれて手に取った。美しい村とは、どんな様子なのかを知りたかった。当たり前のことだけれども、私が読んだのは文庫本だから、挿絵など全くない。延々と文章だけで綴られる情景に、美しさを感じた。目で見て、一瞬にして目を虜にするような美しさを知る一方で、読後に残る余韻の美しさは、美術鑑賞とは別の感覚だったし、読みながら自分が美しい場面をイメージしていることも心地良いものだったように思う。

 

言葉で表現される情景をイメージできなければ、視覚化されていない美しさを感じることは出来ない。勝手な妄想といえば、それまでだけれども、堀の言葉の言い回しや文の繋がりによって、私は、見ようと思っても実際に見ることができない美しさを、想像することで見ることが出来たように思う。こういう感覚は、同じ本でも読み返す度に違ってくるから不思議だ。堀辰雄の他の作品も読み漁り、堀が言葉で描く情景をイメージするのに浸った。

 

私が女子美生だった頃、当時は軽井沢に女子美の寮があり、夏休みには、アルバイトをしながら宿泊できる制度があった。学部2年生の夏休み、それを利用して軽井沢に滞在した。軽井沢には、堀辰雄文学記念館がある。アルバイトの合間に暇をもらい、自転車に乗って記念館まで出かけた。ロマンチック街道を走り続けてようやく記念館が見えた。目的を達成した後の帰り道はひどく長かった。夢から覚めたような気持ちで寮に戻った。

 

 

2017年2月9日

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摘読録――My favorite words 第2回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

新しいものは常に謀叛である。

――徳冨蘆花/中野好夫校訂「謀叛論(草稿)」(1911)

  

第一高等学校で行った大逆事件をめぐる講演のなかのことば。徳富蘆花は、この一節に続けて、「我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ」と述べている。蘆花にとって大逆事件は、たんなる政治的事件ではなかった。「謀叛」とは、彼にとって「生」の在り方そのものだったのである。

  

サルトルは、かつて実存主義の〝教義〟を「実存は本質に先立つ」と要約してみせたが、蘆花の主張するところは、これと近い。実存と本質のイタチゴッコにおいて、常に実存が本質を出し抜くのだとすれば、実存としての生は本質に対する絶えざる「謀叛」とみなしうるはずであるからだ。

  

政治的ポーズにすぎない安楽な「謀反」は、いつの世においてもありふれている。しかし、「謀反」であるような生を生きる者は決して多くはない。

  

  

2017年1月17日

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本物の知、本当の新しさ 〜 その最終補給地はどこか

 

大学院美術研究科デザイン専攻 非常勤講師 (音楽文化学)

石井 拓洋

 

 各自が関わる分野について、大学では、たとえば、大きく二つの側面を学ぶ必要があると考えることもできそうです。一つは、専門として選んだ領域をより深く詳細に学ぶこと、そして、もう一つは、学びにおいて得られた事柄の全体を学術的にまとめるための視点、いわゆる、「研究的視点」の存在を学ぶことです。これらは、車の両輪であり、双方の学びが重要なことは言うまでもありませんが、ここでは、とくに後者に焦点をあてて述べたいと思います。

 

 まず、前者の学びとしては、たとえば、藝術創作研究の分野であれば、表現の具現に関わる具体的な技法や素材のこと、そして作家や様式のこと、あるいは、それらの最新動向などがあげられるかもしれません。それらの知見や技術は、学生のみなさんにとって、まさに日々の課題提出や作品の成否に関わるものであり、その時々の問題意識に直結する有益なトピックであると思われます。したがって、みずから必要な資料や情報をたゆまず探しつづけ、それを摂取、消化しながら、日々、各自の問題意識において、有益なデータが大量に蒐集・蓄積していくことでしょう。また、むしろ、大学卒業後にこそ、職業をつうじて、真に専門的な具体的知見や技術を、いよいよ体得することができると言うべきかもしれません。

 

 一方、後者の学びが対象とするのが、いくつかある「研究的視点」です。ここでは藝術領域を含む人文社会科学分野に話を絞りますが、ここでいう「視点」とは、すなわち、先人たちの精緻な思考から導かれた、世界や物事に対する現実性を伴った大局的な「見方」(みかた) です。いくつかの、このような「視点」の存在を知り、理解し、そしてそれらを適宜参照することによって、わたしたちは、前者の学びによって蒐集・蓄積された多様にして膨大なる情報をまえにして、それを考察し、解釈するための意義ある発想や方途を見いだすことができ、それを通して、最終的に一つの学術的成果物にまとめることができます。多少の気恥ずかしさをよそに、ここで、これら「視点」の基礎的なものを列挙するならば、たとえば、それは「記号論」をはじめとする「言語論的転回」を経過した視点であり、様々な「批評理論」を踏襲した視点であり、あるいは、「イデオロギー論」のような権力と社会に関わる視点であり、つまるところ、二〇世紀の知の蓄積を理論的根拠とする「関係論」的な視点があげられると思います。

 

 この後者の学びの道程は、しかし、簡単ではありません。なぜなら、それらの「視点」が、才気溢れた先人たちの精緻な思考から導出されたものであるだけに、大抵は、初学者が通常に発想しうる範囲や日常慣習の範囲を優にこえる次元にまで議論がおよぶからです。たとえば、かつて、誰もが「地動説」を想像だにしなかったように、まさに本当の意味で「新しい」ことであれば、そのような事柄や概念を、わたしたちは、もとより想起すらできないでしょう。自らのうちに、そもそも存在しない概念を独学で学ぶことはできません。独学には、つねに既知領域の再確認に留まるおそれがあることに留意すべきです。したがって、後者を豊かに学ぶには、通常、単独では困難と言わざるを得ず、やはり学識ある先達の支援が不可欠となります。さらに、そのような「新しさ」は、反面、常に空論となる危険性を孕んでいるために、大学以外の多くの場、とくに、経済性こそを追究すべき局面では、およそこのような、一面で悠長なる議論にかかずらうほどの余地はないと考えられます。つまり、大学卒業後、それは、とくに触れにくい側面となることでしょう。これらを勘案すると、後者の学びは、大学という場でこそ学びうる事柄と言えそうです。

 

 後者の学び、つまり、いくつかの「研究的視点」の理解から得られるものは、学術研究以外でも実に多く、たとえば、私たちの社会での営みの限界を自覚させるとともに、そのことで、かえって、世界への態度をより自由で新鮮なものにしてくれます。そもそも、私たちの世界の見方はどれほど自由なのでしょうか。思想家ルイ・アルチュセールによれば、私たちの視点のうちには、学校、文化施設、メディアなどを通して、すでにたっぷりと体制維持に資する思想風潮(=イデオロギー)が、思考にも身体にも、無意識のうちに刷り込まれているといいます。つまり、私たちが、いわゆる「普通」や「良心的」、あるいは「かっこいい」、「かわいい」と思える価値観や物の見方は、その時々に勢力ある多数派を支える方向へと無意に偏向している可能がかなり高く、その場合、周囲とは、多少、物の見方が変わっているとか、新しいなどといったとしても、所詮は、その大勢的イデオロギー内に事前に用意された安全なる許容範囲を漂っているにすぎません。一方、そのとき、意義ある「研究的視点」を用いるならば、すくなくとも、そのようなイデオロギーの「相対化」を助けてくれることでしょう。つまり、まるで「空気」のように自らを取り巻く、その見えにくいイデオロギーの存在を、まずは意識させ、たとえ、そこから逸脱することはほぼ困難であったとしても、すくなくとも、そのイデオロギーが唯一絶対ではないものとして批判的に検討する術、そして、それにともなう開放感を与えてくれるということです。

 

 それが「相対化」できないことで何よりも問題となるのは、みずからの営為に潜む限界や惰性、そして不自由、それ自体が、もはや認識すらされないことでしょう。すなわち、前者の学びを通して、どれほど意欲のある人が、いかに精力的に情報を蒐集したとしても、あるいはまた、蒐集した情報が、本来、どれほど価値を持つものであったとしても、もし、その情報の蓄積に対して見とおす時に用いる最後の「視点」が陳腐ならば、つねに結果もそうならざるをえず、もっとも問題なのが、かかる陳腐さすら認識できないということです。

 

 これは学術研究のみならず、創作研究であっても、けっして、例外ではありえません。作品をまとめあげるときの拠り所となる、各自の「美的なもの」もまた、ここでいう「研究的視点」の場合と同様でしょう。そこにおいて、もし、「後者の学び」に意識的でなければ、その「美」は容易にイデオロギーに取り込まれ、事前に想定されたその範囲内で安全に漂っているにすぎず、さらに、そのような限界すら、すでに認識できない隘路に陥っている可能性も高いと言わねばなりません。人間にとって、「美」だけは、この世のすべてを超越するという合理的理由を見いだすことは、どうも、今のわたしには困難に思えるからです。

 

 さて、このたび、本学附属図書館企画の「*RECOMMENDATION オススメ本の紹介」において、わたしは、五冊の書籍を推薦しました ( 二〇一六年十一月頃 )。これらは、すべて、ここでの「後者の学び」、つまり、「研究的視点」に資するものを意図して選んだものです。先にふれたアルチュセールのほか、ロラン・バルト、池上嘉彦、松宮秀治、そして、フレドリック・ジェイムソンといった、いずれも一筋縄ではいかない「視点」をもつ、卓越した識者たちによる名著です。これらを紐解くならば、慣習的思考の転換をうながす何かに出会うことは間違えありません。けっして、「三日でわかる」ようなものではなく、面白おかしいものでもありません。しかし、およそ、わたしたちが生きている間くらいは、古くなりえない、或る確かさを得ることになるでしょう。「前者の学び」とともに、大学という場でこそ、ぜひ、このような「視点」にふれ、そして、卒業前に学んで欲しいと願っています。

 

*註(図書館):「RECOMMENDATION オススメ本の紹介」で推薦された五冊

芸術崇拝の思想 : 政教分離とヨーロッパの新しい神

国家とイデオロギー

物語の構造分析

記号論への招待

政治的無意識 : 社会的象徴行為としての物語
                                                   

2016年11月30日

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摘読録――My favorite words 第1回 

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

 

全体を覆った砂を払いのけてみると緑色が現れた。ガラスだった。不透明と言っても差し支えないほど濃い緑色をしていた。(中略)それはただガラスであるというよりほかないものだった。しかし、それは同時に高価な石であるとも言えた。

――ヴァージニア・ウルフ/西崎憲訳「堅固な対象」(1918)

 

原題は“Solid objects”。複数形が用いられていることからもわかるように、この小説に登場するオブジェはガラス片だけではない。砂のなかから宝石のようなsea glassを拾い上げたのがきっかけとなって、有能な青年政治家であるジョンは、磁器、琥珀、大理石、化石、鉄など、さまざまなマテリアルの断片的オブジェを蒐集しはじめ、ついには蒐集癖が昂じて政治家としての地位を失うまでに至る。

 

ウルフの短編中、最高の傑作と評されるこの小説は、人間の生においてオブジェがもつ呪的な力を描いた作品として読むことができる。solidというのは、生の曖昧さに対置される在り方であり、それゆえ、生の有りようを相対化せずにはおかない。呪符は、曖昧な生を相対化し、身の上に根底的な変化をもたらすことによって、それを手にした者の生をまもるのだ。

 

ジョンが、手にしたガラス片を、ためらいつつポケットにすべりこませる場面において、ウルフは、道に散らばる小石のひとつを子どもが拾い上げるときの衝動を引き合いにだしている。そして、ジョンの独白。

 

拾われたのは私なのだ、この私、私。

オブジェは書物のなかにも見いだされる。それは「引用句[クオート]」と呼ばれ、ほんらいの文脈から切り離して取り上げられる。すなわち、さまざまな文脈へ向けて解き放たれる。

 

これからしばらくのあいだ「摘読録」という名のもとに、愛蔵の書物のなかから、sea glassのようにsolidでうつくしい言葉の断片たちを拾い上げて提示してゆきたいと思う。とはいえ、けっして引用句辞典のような気の利いたものをめざしているわけではない。めざすところは、いうなればファウンド・オブジェの標本箱のようなものにすぎない。

 

2024116日改稿

2016年11月28日

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《折々のうた》詩人大岡信先生とのこと

 

 神奈川芸術文化財団/女子美術大学非常勤講師

中野仁詞

 

 

 「折々のうた」は、1979年1月25日から2007年3月31日にかけて、朝日新聞の朝刊第1面にて連載され、短歌、俳句、漢詩、川柳、近現代詩、歌謡のなかから、毎日1つをとりあげ、それを解説する詩人大岡信先生によるコラムだ。

 

 2003年、筆者は当時、横浜市西区の紅葉坂を登りきった場所にある神奈川県立音楽堂(設計は前川国男、管理運営は神奈川芸術文化財団)に勤務し、主に現代音楽や創作舞台の制作をしていた。そんな時、大岡信先生とお仕事をさせていただける機会に恵まれた。翌2004年は、音楽堂開館50周年の記念年である。そこで、作曲家團伊玖磨氏の後継として神奈川芸術文化財団芸術総監督に就任したばかりの作曲家でピアニストの一柳慧氏に自らの企画を恐る恐る渡してみた。内容は、創作現代能である。演出は、観世流シテ方能楽師観世榮夫氏、舞台上には書家井上有一氏(1985年没)の一字書(大型の画面に一文字のみ描かれる書)を取り入れたいというものであった。一柳氏は、直ぐにこれを実施すべく準備をするようにと指示を出してくれた。

 

 この作品には台本が必要であるという一柳氏の判断から、台本作者は大岡信先生が最適であると、先生を紹介してくれた。大岡先生と一柳氏は1988年に初演された交響曲《ベルリン連詩》で共同制作して以来の長い付き合いである。

 日本の伝統芸能である能を現代的表現として捉え直し、いかに実験的な刺激を創り出し鑑賞者に投げかけ、そして問いかけができるか、様々な要素が絡みあう打ち合わせが、大岡先生、観世氏、一柳氏と幾度も行われた。打ち合わせの前に、「今日は1週間分の折々のうたの原稿を朝日新聞にだしてきたよ」など、大岡先生がにこやかに笑いながら語られる姿を今でも覚えている。

 最終的に決まった企画は、一人の美しい娘に二人の男が求愛するストーリーの世阿弥の曲《求塚》を大岡先生が新作台本として書き下ろし、舞台上に展示する井上有一氏の作品も娘を表わす1点の《鳥》を二人の男の心情《愛》2点と決まった。舞台では、演出の観世氏が二役の娘を自ら演じ、作曲の一柳氏が自らピアノを演奏し、狂言の野村万作氏などのベテランが揃った豪華な舞台となった。公演のタイトルは、《音楽詩劇 生田川物語−能「求塚」にもとづく》である。(2004年8月8日初演、神奈川県立音楽堂)

 

 しかし、上演に至るまで大岡先生の台本が相当遅れたという苦いこともあった。それは、台本をお願いした直後、文化勲章を受章されたのだ。取材やお正月に皇居で開催される「歌会始の儀」への招待など受章後、とても多忙だったためである。台本がないと、出演者の選定やスケジュール押さえができず、筆者は、はらはら、そして悶々とした毎日を送っていたが、本番から約5ヶ月前にようやく完成原稿を受け取った際の嬉しさは今でも忘れることができない。

 

 初演に向けて、制作や広報を進めるなかテレビ朝日の「徹子の部屋」という番組で大岡信先生を紹介していただけることになった。収録の日は、ハイヤーが先生のご自宅まで迎えに来てスタジオまで送ってくれた。その日は、終日ハイヤーを使えるとのことで、大岡先生に収録後お食事でもいかがでしょうか、と伺ってみた。30代前半の筆者と大学を出たばかりのアシスタントと3名の宴である。大岡先生は、なんの躊躇もなく快諾してくれた。その晩は、筆者の父の親友が築地で営んでいる小料理屋にお連れした。

 

 これまでの大岡先生と親交があった著名人とのお話や、「折々のうた」の膨大な連載についていろいろなお話を伺った。今でもはっきり覚えている大岡先生の一言は、「中野くん、自分に才能があるとはあまり思っていないんだよ。ただこれまでいろいろな人と会い、場数を踏んだことは確かだね」と。

 

 われわれのような若い者と膝を突き合わせながら3時間以上お付き合いしていただいた先生との経験から、世間的(一般的)に「偉い」と言われる方は、人を上にも下にもみないのだ、と感じた一夜だった。
短歌や俳句など様々な人の言葉の表現を、ご自身の解釈でもう一度、読み捉え返す「折々のうた」。この日々の創造が、大岡信先生のお人柄に結びついているのだ。

 

2016年11月27日
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