先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


本物の知、本当の新しさ 〜 その最終補給地はどこか

 

大学院美術研究科デザイン専攻 非常勤講師 (音楽文化学)

石井 拓洋

 

 各自が関わる分野について、大学では、たとえば、大きく二つの側面を学ぶ必要があると考えることもできそうです。一つは、専門として選んだ領域をより深く詳細に学ぶこと、そして、もう一つは、学びにおいて得られた事柄の全体を学術的にまとめるための視点、いわゆる、「研究的視点」の存在を学ぶことです。これらは、車の両輪であり、双方の学びが重要なことは言うまでもありませんが、ここでは、とくに後者に焦点をあてて述べたいと思います。

 

 まず、前者の学びとしては、たとえば、藝術創作研究の分野であれば、表現の具現に関わる具体的な技法や素材のこと、そして作家や様式のこと、あるいは、それらの最新動向などがあげられるかもしれません。それらの知見や技術は、学生のみなさんにとって、まさに日々の課題提出や作品の成否に関わるものであり、その時々の問題意識に直結する有益なトピックであると思われます。したがって、みずから必要な資料や情報をたゆまず探しつづけ、それを摂取、消化しながら、日々、各自の問題意識において、有益なデータが大量に蒐集・蓄積していくことでしょう。また、むしろ、大学卒業後にこそ、職業をつうじて、真に専門的な具体的知見や技術を、いよいよ体得することができると言うべきかもしれません。

 

 一方、後者の学びが対象とするのが、いくつかある「研究的視点」です。ここでは藝術領域を含む人文社会科学分野に話を絞りますが、ここでいう「視点」とは、すなわち、先人たちの精緻な思考から導かれた、世界や物事に対する現実性を伴った大局的な「見方」(みかた) です。いくつかの、このような「視点」の存在を知り、理解し、そしてそれらを適宜参照することによって、わたしたちは、前者の学びによって蒐集・蓄積された多様にして膨大なる情報をまえにして、それを考察し、解釈するための意義ある発想や方途を見いだすことができ、それを通して、最終的に一つの学術的成果物にまとめることができます。多少の気恥ずかしさをよそに、ここで、これら「視点」の基礎的なものを列挙するならば、たとえば、それは「記号論」をはじめとする「言語論的転回」を経過した視点であり、様々な「批評理論」を踏襲した視点であり、あるいは、「イデオロギー論」のような権力と社会に関わる視点であり、つまるところ、二〇世紀の知の蓄積を理論的根拠とする「関係論」的な視点があげられると思います。

 

 この後者の学びの道程は、しかし、簡単ではありません。なぜなら、それらの「視点」が、才気溢れた先人たちの精緻な思考から導出されたものであるだけに、大抵は、初学者が通常に発想しうる範囲や日常慣習の範囲を優にこえる次元にまで議論がおよぶからです。たとえば、かつて、誰もが「地動説」を想像だにしなかったように、まさに本当の意味で「新しい」ことであれば、そのような事柄や概念を、わたしたちは、もとより想起すらできないでしょう。自らのうちに、そもそも存在しない概念を独学で学ぶことはできません。独学には、つねに既知領域の再確認に留まるおそれがあることに留意すべきです。したがって、後者を豊かに学ぶには、通常、単独では困難と言わざるを得ず、やはり学識ある先達の支援が不可欠となります。さらに、そのような「新しさ」は、反面、常に空論となる危険性を孕んでいるために、大学以外の多くの場、とくに、経済性こそを追究すべき局面では、およそこのような、一面で悠長なる議論にかかずらうほどの余地はないと考えられます。つまり、大学卒業後、それは、とくに触れにくい側面となることでしょう。これらを勘案すると、後者の学びは、大学という場でこそ学びうる事柄と言えそうです。

 

 後者の学び、つまり、いくつかの「研究的視点」の理解から得られるものは、学術研究以外でも実に多く、たとえば、私たちの社会での営みの限界を自覚させるとともに、そのことで、かえって、世界への態度をより自由で新鮮なものにしてくれます。そもそも、私たちの世界の見方はどれほど自由なのでしょうか。思想家ルイ・アルチュセールによれば、私たちの視点のうちには、学校、文化施設、メディアなどを通して、すでにたっぷりと体制維持に資する思想風潮(=イデオロギー)が、思考にも身体にも、無意識のうちに刷り込まれているといいます。つまり、私たちが、いわゆる「普通」や「良心的」、あるいは「かっこいい」、「かわいい」と思える価値観や物の見方は、その時々に勢力ある多数派を支える方向へと無意に偏向している可能がかなり高く、その場合、周囲とは、多少、物の見方が変わっているとか、新しいなどといったとしても、所詮は、その大勢的イデオロギー内に事前に用意された安全なる許容範囲を漂っているにすぎません。一方、そのとき、意義ある「研究的視点」を用いるならば、すくなくとも、そのようなイデオロギーの「相対化」を助けてくれることでしょう。つまり、まるで「空気」のように自らを取り巻く、その見えにくいイデオロギーの存在を、まずは意識させ、たとえ、そこから逸脱することはほぼ困難であったとしても、すくなくとも、そのイデオロギーが唯一絶対ではないものとして批判的に検討する術、そして、それにともなう開放感を与えてくれるということです。

 

 それが「相対化」できないことで何よりも問題となるのは、みずからの営為に潜む限界や惰性、そして不自由、それ自体が、もはや認識すらされないことでしょう。すなわち、前者の学びを通して、どれほど意欲のある人が、いかに精力的に情報を蒐集したとしても、あるいはまた、蒐集した情報が、本来、どれほど価値を持つものであったとしても、もし、その情報の蓄積に対して見とおす時に用いる最後の「視点」が陳腐ならば、つねに結果もそうならざるをえず、もっとも問題なのが、かかる陳腐さすら認識できないということです。

 

 これは学術研究のみならず、創作研究であっても、けっして、例外ではありえません。作品をまとめあげるときの拠り所となる、各自の「美的なもの」もまた、ここでいう「研究的視点」の場合と同様でしょう。そこにおいて、もし、「後者の学び」に意識的でなければ、その「美」は容易にイデオロギーに取り込まれ、事前に想定されたその範囲内で安全に漂っているにすぎず、さらに、そのような限界すら、すでに認識できない隘路に陥っている可能性も高いと言わねばなりません。人間にとって、「美」だけは、この世のすべてを超越するという合理的理由を見いだすことは、どうも、今のわたしには困難に思えるからです。

 

 さて、このたび、本学附属図書館企画の「*RECOMMENDATION オススメ本の紹介」において、わたしは、五冊の書籍を推薦しました ( 二〇一六年十一月頃 )。これらは、すべて、ここでの「後者の学び」、つまり、「研究的視点」に資するものを意図して選んだものです。先にふれたアルチュセールのほか、ロラン・バルト、池上嘉彦、松宮秀治、そして、フレドリック・ジェイムソンといった、いずれも一筋縄ではいかない「視点」をもつ、卓越した識者たちによる名著です。これらを紐解くならば、慣習的思考の転換をうながす何かに出会うことは間違えありません。けっして、「三日でわかる」ようなものではなく、面白おかしいものでもありません。しかし、およそ、わたしたちが生きている間くらいは、古くなりえない、或る確かさを得ることになるでしょう。「前者の学び」とともに、大学という場でこそ、ぜひ、このような「視点」にふれ、そして、卒業前に学んで欲しいと願っています。

 

*註(図書館):「RECOMMENDATION オススメ本の紹介」で推薦された五冊

芸術崇拝の思想 : 政教分離とヨーロッパの新しい神

国家とイデオロギー

物語の構造分析

記号論への招待

政治的無意識 : 社会的象徴行為としての物語
                                                   

2016年11月30日
Top