第26回女子美パリ賞受賞者 朝倉優佳
パリの日々の中へ
外部の文化圏からパリにやって来た者としてのまなざしと、制作を行う者としての立場から、日々の暮らしのディテールを記してみたい。これまで日本を拠点に築いてきた私自身の日常が、ここで出会う人々、文化、気候といったものに触れるなかで、どのように変化していくのか。あるいは、変わらないものもあるのか。その過程を、静かに見つめていきたい。日常は制作の一部であり、制作は日常の一部である。いずれにせよ、この二つは、切り離せるものではない。これから綴るテキストは、少なからず私の制作活動と呼応している。これらは、キャンバスの上で進む制作と並行して進んでいく記録である。
4月、機内にて
日本からフランスへ向かう飛行機のなか、機内の落語傑作選を聴きながらうたた寝を繰り返していると、いつの間にか9時間も経っていた。オフシーズンということもあり、機内にはちらほら空席が見える。もともと飛行機での移動は嫌いではないが、今回は出発前のドタバタもあって少し疲れていた。そのぶん、機内の落ち着いた雰囲気も手伝って、よく眠れた。まだまだ眠れそうだ。映画を観る時間もないかもしれない。自分でも呑気な性格だと思う。結局、『お菊の皿』のサゲには乗り切れなかった。語り手との相性があるだろうが、うたた寝の合間ではそれも判断できない。
日本を離れたとき、自分の感情はどうなるのかと、どこか他人事のように、自身を観察対象として見ている自分がいた。だが実際は、思いのほか落ち着いている。「無」ではないが、「無」に近い、そんな心持ちだ。寂しさでもなければ、これからの生活への高揚感とも少し違う。むしろ「無」よりも「ゼロ」に近いかもしれない。無が“有”の対比に位置する静的な存在だとすれば、ゼロは「1の手前」にあり、「1」を前提としてそこにあるような動きの予兆を含んでおり、まだ形になっていない何かの始まりを匂わせる。何かをつくり出す、その少し手前の場所に、私はようやく辿り着いた、そんな感覚が一番近いかもしれない。
機内の時間の中で、改めてなぜ人は――この私は――海外へ向かおうとするのだろうかと、ぼんやり考えていた。今の時代、ほとんどのことはネットで見ることができるというのに。
その理由の一つに、「日常と非日常の反転」が経験できることがあるのではないだろうか。見るもの、聞くもの、味わうもの、触れるもの、香るもの――それらが、自分が生まれ育った土地から遠く離れた文化圏では、まったく異なって見えてくる。現地の人々にとっては当たり前の光景でも、私にとっては驚きや発見となり、ときには思わずカメラに収めたくなるような出会いがある。それと同時に、私たちはその中に共通点も見出し、どこか安心する。人々の表情や生活様式、人間模様などを通じて、「離れていても同じ世界に生きているのだ」と感じるようなつながりや親しみも生まれる。
もちろん、日常のかたちは個人単位で異なる。同じ地域、似たような環境に暮らしていても、日々の優先事項や習慣は人それぞれだ。だからこそ、異国の地での体験が必ずしも誰にとっても驚きや刺激になるとは限らない。しかし、自分自身がその場所に身を置いてはじめて、あらためて自分の日常と向き合うことが、できることが確かにある。他人が発信した映像や言葉はあくまで「他者の視点による他国」であって、それは知識にはなっても、経験にはなり得ない。これが私の実感だ。
そして、その異国での生活が日常となったとき、今度はかつて当たり前だったものが非日常として立ち上がってくる。自国の暮らしをあらためて評価するような瞬間もあれば、逆に、かつて気にも留めなかったことに違和感を抱くような場面もあるだろう。そうやって、「当たり前」だと感じていたものが揺らぎ始める。
非日常に触れることをきっかけに、自分の内側にあった日常との対比が起こり、その刺激によって心が揺さぶられる。落ち着かない感情が生まれ、内的な活動が活発になる。それが繰り返されていくことで、非日常がやがて日常となり、再び生まれ育った文化圏に戻れば、また新たな視点に出会う。
このようなサイクルの中に身を置けることは、ものづくりに携わる私たちにとって、とても幸運なことだと思う。少し大袈裟な言い方かもしれないが、これまで信じて疑わなかったもの、当然のように思っていたことに疑問を持ち、それを内側から壊していく――そうした柔軟性こそが、ものづくりにおいて重要なプロセスのひとつになり得るのではないだろうか。こうした柔軟性を得る機会は、海外での生活の中で得られる可能性が多いように思う。
他国に赴くことは、もちろんその土地の文化や人々を知ることでもあるが、それ以上に「自分自身をとらえ返す機会」でもある。自国を離れるという行為は、自分という人間を形作ってきたものを客観的に見直すことになり、それは間接的に自分自身を見つめ直すことにつながるはずだ。
パリに着いて数日経ったある日の夕方、中華料理店に入った。フランスの人々にとっては夕食にはまだ早い時間だったため、店内には私と、アジア系の店員だけであった。店の外では、さまざまな人種の人々が行き交い、多くの言語が飛び交っている。賑やかなその様子をぼんやりと眺めながら、私はまるで世界を違う側から覗いているような不思議な感覚に包まれていた。そして、この側面から見る光景が今の自分の日常に最も近いかたちなのだな、と改めて実感した。
ここでは、日常と非日常がころころと転がるように入れ替わる。その“転がり”を、滞在中はゆっくりと楽しんでいきたいと思っている。