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ヘビを助ける物語について

芸術文化専攻 助手 中島彩花

 

修験道の聖地・熊野に通じる山道を、一人の修行僧が血相を変え、荷物も放り出し、転がるようにして駆けていきます。

 すれ違う参詣人たちが、一体何事かと怪しんでいると、後からもう一人、女が走り過ぎていきます。髪と衣を振り乱し、草履を脱ぎ捨て恥も外聞もなく。

 僧は、この女から逃げていました。女は、「修行が終わったら自分に会いに来る」という約束を破ったその僧を追いかけていました。

 

「あな口惜しや。いちどでも、われ此の法師を取つめざらん限りは、心はゆくまじきものを」

 

 美しかった女の顔が、次第に獣のような形に変化していきます。やがて口から火を吐き、蛇頭人身の姿となり、ついには、まがまがしい「大毒蛇」へと変身してしまうのです。

 

 これは、紀伊国(現在の和歌山県)にある道成寺というお寺の伝説を描いた、『道成寺縁起』という絵巻の一場面です。

 恋心を裏切られた怒りによって大蛇に変じた女と、追われる僧との何十キロにも及ぶ追跡劇は、僧が逃げ込んだ道成寺で決着を迎えます。

僧は寺の人々に訳を話し、大きな鐘の中にかくまってもらいますが、その鐘に取り付いた大蛇によって焼き殺されてしまいます。大蛇が火を吹きながら鐘に巻きつく場面は、この絵巻のクライマックスともいえるでしょう。

 

しかし、物語はまだ終わりません。

数日後、道成寺の老僧の夢の中に、二匹の蛇が現れます。

そのうちの一匹が、「わたしは鐘の中にこめられた僧である」と名乗ります。そして、「悪い縁によってこの女と夫婦になって蛇に生まれ変わってしまった、どうか成仏できるようにお経を写して供養してほしい」と頼むのです。

 絡み合った蛇は、あの恐ろしい大蛇の姿とは違い、何だかちんまりとしていて哀れな様子です。

老僧はすぐさま道成寺の僧侶たちに呼びかけ、みなで『法華経』というお経を書写して、二人を供養します。金や色とりどりの仏具で装飾されたお堂の中で、何人もの僧侶がお経をあげ、赤い蓮の花びらを散華します。

 女と僧の逃走劇の長さには及びませんが、大蛇が這いずり鐘を焼き尽くす場面と同じくらいのボリュームと気合いをもって、この写経供養の場面は描かれます。

 甲斐あって、次の場面では再び老僧の夢に、今度は天人の姿となった二人が訪れ、苦しみから救われたことが示されます。

 

 この絵巻自体は室町時代に描かれたものですが、恋の空回りの果てに女性が大蛇と化し、修行僧を追いかけたあげく道成寺の惨劇に至る、という物語は、遅くとも平安時代中期には生まれていたようです。

 のちには能、浄瑠璃、歌舞伎などでも演じられるモチーフとなっていきますが、ここでは平安時代末期にさまざまな説話を集めて成立した『今昔物語集』でのあり方を見てみましょう。

 

 『今昔物語集』巻十四の三番目に収録されたこの物語のタイトルは、〈紀伊国の道成寺の僧、法華を写して蛇を救える語(こと)〉となっています。

 つまり〈女、蛇と化して僧を追う語〉でも〈僧、女に追われ鐘の中で焼け死ぬ語〉でもなく、道成寺のお坊さんが蛇となった二人を救済すること、がこの物語の主旨であるようなのです。

 

 もちろんそこには、『今昔物語集』の編集者の意図があります。

 実はこの巻十四には『法華経』やその他の経典がどれだけスゴイものか、をあらわす仏教説話が集められているのです。

 なので、同巻の目次を眺めてみると、〈キツネを救うために法華経を写した〉〈勝陀羅尼経の力で鬼の難からのがれた〉〈弘法大師が請雨経の力で雨を降らせた〉などのタイトルがずらりと並んでいます。

 中でも〈道成寺〉のお隣、二番目の〈信濃守(しなののかみ)、蛇とねずみとのために法華を写して苦を救える語〉は面白い話です。

 

 ある時、信濃守(信濃国の行政官)が任期を終え、部下たちを従えて京の都に戻る道すがら、大きな蛇がついてきます。一行が停まれば蛇も停まり、夜には衣類を入れた櫃(ひつ)の下でとぐろを巻いています。

 やがて信濃守の夢に、まだら模様の衣を着た男、すなわち蛇が現れ、こう告げます。

「私の長年の怨敵が、あなたの櫃の中にいる。その男を殺すために、私はあなた方についてきているのだ」

 目覚めて信濃守が櫃を開けてみると、底には老いたねずみがいて、たいそう怯えた様子で逃げもせずに小さく丸まっています。

「捨ててしまいましょう」と部下たちは言います。

 信濃守は首を横に振ります。

「捨ててしまえば、このねずみは蛇に飲み込まれてしまうだろう。蛇もねずみも、救いたい」

 そして、〈道成寺〉同様、『法華経』の写経供養をその場で営むことにするのです。

 文章はこう続いています。

 

 共の多くの人、手ごとに書く間に、一日の内に皆書き出し奉りつれば、即ち具せる所の僧を以て、もっぱらに彼等が為に、法の如くに供養し奉りつ。

 

 蛇とねずみのために、何人もの人が手分けをして写経をしています。同行していた僧侶にお経をあげてもらい、きちんと作法にのっとって儀式をとり行います。

 短い文章の中に、まるで町内会のお祭りのように人々が協力しあう、にぎやかでほのぼのとした情景が浮かび上がってきます。この物語でも、蛇とねずみはその夜、美しい衣を身にまとった二人の男の姿で信濃守の夢に登場し、

「我々は敵同士として生まれ変わっては殺し合ってきたが、あなたが慈しみの心で供養してくれたおかげで、苦しみの世界から救われた」

 と礼を言って天に昇っていきます。

 ここでは、経典の力だけではなく、「助けよう」と思った信濃守の心が救いをもたらしたことがはっきりと示されています。

 

 わたしたちの暮らす現代社会では、人間が大蛇に変身したりしませんし、蛇やねずみが話しかけてきたりもしません。お経を写して助けてあげる、というのも、あまり現実味は感じられません。

 けれども、怒りや不安その他のネガティブな感情でいっぱいになってしまって、あるいは自分ではどうにもできない状況に追い込まれて、苦しむ、ということには誰しも身に覚えがあるはずです。

 ここで紹介した絵巻や説話は、そういうわたしたちに、まず「助けて」と言えばいいんじゃないの、と語りかけてきます。

 〈道成寺〉の大蛇も、あるいは「助けて」と思っていたのかもしれません。でも火を吹いて怒り狂うだけでは周囲に伝わらないし周りもどうしようもないし、結局好きな男ともども自分を焼き尽くしてしまいました(個人的には、男のこともほんとはそんなに好きじゃなかったんじゃないかと思います)。

 なので、ヘビやねずみや、カニやうさぎのように正直に、しょんぼりした顔で「困っています、助けてください」と。

 そのあとは助ける人の物語です。「迷惑をかけるのでは」などと心配がらず、また結果に期待はせずに。それでもし助けてもらえたら、きちんとお礼を言えばいいのです。

 記され描かれてきた物語というものは、何百年たっても変わらない人間の悩みと、それに対する答えを含んでいるようです。

 

【ここで紹介した物語が読める本】

続日本絵巻大成13『桑実寺縁起 道成寺縁起』小松茂美編、中央公論社、1982年

続日本の絵巻24『桑実寺縁起 道成寺縁起』小松茂美編、中央公論社、1992年

新日本古典文学大系35『今昔物語集 3』池上洵一校注、岩波書店、1993年

 

2017年5月2日
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