先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


《折々のうた》詩人大岡信先生とのこと

 

 神奈川芸術文化財団/女子美術大学非常勤講師

中野仁詞

 

 

 「折々のうた」は、1979年1月25日から2007年3月31日にかけて、朝日新聞の朝刊第1面にて連載され、短歌、俳句、漢詩、川柳、近現代詩、歌謡のなかから、毎日1つをとりあげ、それを解説する詩人大岡信先生によるコラムだ。

 

 2003年、筆者は当時、横浜市西区の紅葉坂を登りきった場所にある神奈川県立音楽堂(設計は前川国男、管理運営は神奈川芸術文化財団)に勤務し、主に現代音楽や創作舞台の制作をしていた。そんな時、大岡信先生とお仕事をさせていただける機会に恵まれた。翌2004年は、音楽堂開館50周年の記念年である。そこで、作曲家團伊玖磨氏の後継として神奈川芸術文化財団芸術総監督に就任したばかりの作曲家でピアニストの一柳慧氏に自らの企画を恐る恐る渡してみた。内容は、創作現代能である。演出は、観世流シテ方能楽師観世榮夫氏、舞台上には書家井上有一氏(1985年没)の一字書(大型の画面に一文字のみ描かれる書)を取り入れたいというものであった。一柳氏は、直ぐにこれを実施すべく準備をするようにと指示を出してくれた。

 

 この作品には台本が必要であるという一柳氏の判断から、台本作者は大岡信先生が最適であると、先生を紹介してくれた。大岡先生と一柳氏は1988年に初演された交響曲《ベルリン連詩》で共同制作して以来の長い付き合いである。

 日本の伝統芸能である能を現代的表現として捉え直し、いかに実験的な刺激を創り出し鑑賞者に投げかけ、そして問いかけができるか、様々な要素が絡みあう打ち合わせが、大岡先生、観世氏、一柳氏と幾度も行われた。打ち合わせの前に、「今日は1週間分の折々のうたの原稿を朝日新聞にだしてきたよ」など、大岡先生がにこやかに笑いながら語られる姿を今でも覚えている。

 最終的に決まった企画は、一人の美しい娘に二人の男が求愛するストーリーの世阿弥の曲《求塚》を大岡先生が新作台本として書き下ろし、舞台上に展示する井上有一氏の作品も娘を表わす1点の《鳥》を二人の男の心情《愛》2点と決まった。舞台では、演出の観世氏が二役の娘を自ら演じ、作曲の一柳氏が自らピアノを演奏し、狂言の野村万作氏などのベテランが揃った豪華な舞台となった。公演のタイトルは、《音楽詩劇 生田川物語−能「求塚」にもとづく》である。(2004年8月8日初演、神奈川県立音楽堂)

 

 しかし、上演に至るまで大岡先生の台本が相当遅れたという苦いこともあった。それは、台本をお願いした直後、文化勲章を受章されたのだ。取材やお正月に皇居で開催される「歌会始の儀」への招待など受章後、とても多忙だったためである。台本がないと、出演者の選定やスケジュール押さえができず、筆者は、はらはら、そして悶々とした毎日を送っていたが、本番から約5ヶ月前にようやく完成原稿を受け取った際の嬉しさは今でも忘れることができない。

 

 初演に向けて、制作や広報を進めるなかテレビ朝日の「徹子の部屋」という番組で大岡信先生を紹介していただけることになった。収録の日は、ハイヤーが先生のご自宅まで迎えに来てスタジオまで送ってくれた。その日は、終日ハイヤーを使えるとのことで、大岡先生に収録後お食事でもいかがでしょうか、と伺ってみた。30代前半の筆者と大学を出たばかりのアシスタントと3名の宴である。大岡先生は、なんの躊躇もなく快諾してくれた。その晩は、筆者の父の親友が築地で営んでいる小料理屋にお連れした。

 

 これまでの大岡先生と親交があった著名人とのお話や、「折々のうた」の膨大な連載についていろいろなお話を伺った。今でもはっきり覚えている大岡先生の一言は、「中野くん、自分に才能があるとはあまり思っていないんだよ。ただこれまでいろいろな人と会い、場数を踏んだことは確かだね」と。

 

 われわれのような若い者と膝を突き合わせながら3時間以上お付き合いしていただいた先生との経験から、世間的(一般的)に「偉い」と言われる方は、人を上にも下にもみないのだ、と感じた一夜だった。
短歌や俳句など様々な人の言葉の表現を、ご自身の解釈でもう一度、読み捉え返す「折々のうた」。この日々の創造が、大岡信先生のお人柄に結びついているのだ。

 

2016年11月27日
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