女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
もしもわれわれが支配者を選ぶときに、候補者の政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう。
――ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳『私人』(1996)
スタンダールやディケンズやドストエフスキイについて、選挙の候補者にまず尋ねてみるべきだとブロツキイはいう。そして、その理由を「少なくとも、ディケンズの小説をたくさん読み耽った者にとって、いかなる理想のためであれ自分と同じ人間を撃ち殺すことは、ディケンズを読んだことのない者にとってよりも難しいだろう」と要約している。
ブロツキイにとって、文学作品を読むということは、たった一人で作者と対等に向かい合う「私的な会話」であり、こうした読書体験は、やがて個人の行動を規定せずにおかない。そのようにして、人びとは文学作品を「演奏」するのだ、とブロツキイはいう。こうした考え方の根柢には、美と善をひとつにみようとするカロカガティア(善美)の発想がある。
23才のブロツキイは旧ソヴィエト連邦で、定職もなくごろごろしている「徒食者」として逮捕され、裁判にかけられた。1963年のことだ。そのときの裁判記録には、裁判官とのこんなやりとりが記録されている。沼野充義による訳者「解説」から引く。
裁判官「いったい、あなたの職業は何なんです?」
ブロツキイ「詩人です。詩人で、翻訳もします」
裁判官「誰があなたを詩人と認めたんです?誰があなたを詩人の一人に加えたんです?」
ブロツキイ「誰も」(挑戦的な態度ではなく)「じゃあ、誰がぼくを人間の一人に加えたっていうんです?」
ここにも人間として生きることと文学とをひとつにみようとする構えが見いだされる。これがカロカガティアを踏まえた構えであることはいうまでもあるまい。
『私人』はノーベル文学賞受賞記念講演の記録。
2022年7月6日