女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ
――イマヌエル・カント/中山元訳『道徳形而上学の基礎づけ』(1785)
「道徳」という語は手垢にまみれている。手垢にまみれているのは、それが扱いやすいからだ。扱いやすいのは、種々雑多な感情や心的傾向に馴染むからである。つまり、ご都合主義的な利便性をもつわけだ。カントは、こうした通俗道徳を、みずからが探究する「道徳」と峻別しようと企てた。理性から無条件に発せられる至上命令、カントにとってはそれこそが道徳であった。
そのためにカントは、俗に「道徳」と称されるものの道徳としての資格をチェックする方式を探究した。その探究の最初の成果が『道徳形而上学の基礎づけ』であり、そこでカントは、道徳的な行いの在り方を冒頭のことばのように規定してみせたのだった。いつでも、どこでも、誰にでも――あたかも自然法則のように――当てはまることを欲しうる、そのような行動原理のみにしたがって行為するならば、その行為は善き行いであって、「道徳」の名にあたいするというわけである。
カントは「寛容」「慈悲」「正直」「誠実」などの徳目を数え上げることをしていない。ここに引いたカントのことばは、こうした徳目が、ほんとうに「道徳」の名にあたいするかどうかをチェックする方式を示しているだけだ。いいかえれば形式だけがあって内容がない。だから、道徳論としては物足りない思いを抱くかもしれないけれど、具体的な徳目が民族や国家や時代のバイアスによって制約されがちであることを思うとき、また、鼻持ちならない通俗道徳を押し返すうえで、この方式は、がぜん重要性を帯びてくる。道徳性のチェックは「道徳の清算」(ニーチェ)でもありうるのだ。
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いうまでもなく善き行いは自発的なものでなければ意義をもたない。「欲する」という言葉には、そのような意味合いが感じられる。自発的ということは、見せかけではないということを含意している。見せかけでないとは、善き行いが何事かの手段ではないということ、踏み込んでいえば、善き行いそのものが目標として目指されているということだ。
「普遍的」というのは、誰にでも当てはまるということだから、カントの方式は他者の存在を前提としている。すなわち、他者との相互性が想定されている。自己の「行動原理」が「普遍的」であるならば、同じ「行動原理」に拠る他者の行動が自己に差し向けられることを受け容れなければならないわけである。
こうした相互性を成り立たせるためには――あるいは、相互性を成立たせてゆく過程においては――自己愛にまみれた独善を排する努力が必要となる。いいかえれば、他者への責任と共感にもとづく社会的な想像力の行使が要請される。すなわち、想像の力を借りた普遍化が求められる。カントのいう「理性」にはキリスト教の神の影が感じられるが、一神教になじみのうすい地域や時代において道徳を探究するには、とりあえず、こうしたスタンスをとるほかない。
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自己の「行動原理」を普遍化するということは、自省をともなう社会的拡張過程にほかならず、その過程で幾多の他者たちが普遍性の試金石として呼び出されることになる。顔を想いうかべることのできる身近な存在から、姿も定かならぬ抽象的存在に至るグラデーションのなかから、さまざまな他者を訪ね歩くようにして普遍化の企ては進行してゆく。この過程は、いささか推敲の過程に似ている。
カントの表現は厳密さを期するあまり、まわりくどく分かりにくい。しかし、たとえ即座に理解できないとしても、なんとか理解しようとあれこれ考えをめぐらせるならば、カントの想い描く道徳へと徐々に接近することができるにちがいない。あるいは、こういってもよい。この模索が道徳性を喚起し、自己の「行動原理」に対する反省を促すのだ、と。自省的に普遍化を探究することは、自己の「行動原理」を批判的に修正してゆくことでもあるだろう。
「普遍的」であろうとして模索をつづける構えと「行動原理」にかんする反省の重要さは、アイヒマンがイェルサレムにおける裁判で、自分はカントの道徳の格率に則って生きてきたと証言したことに見てとることができる。普遍化の努力と反省のないところではチェック機能は空転するほかなく、その結果、独善性がまかりとおることにもなるのだ。
2022年6月22日