女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
そうやな、まあものにたとえたら、暗闇にへたつけたような……
――桂米朝「天狗裁き」の枕より
初夢を縁起のいい順に数えて「一富士、二鷹、三茄子[なすび]」という。「暗闇にへたつけたような」というのは、正月二日に巨大な茄子の夢を見た男が、その大きさを喩えたものいいである。「へた」は漢字で書くと「蔕」、実と茎を繋ぐ役割をしている部分のことだ。
米朝は「これが世界で一番大きな噺でございます。こんな雄大なたとえはちょっとないやろうと思いますが……」と言っている。なるほどそのとおりだろうと思うものの、ちょっと考えてみると、この「雄大」さは意外と複雑な仕組みによって成り立っている。
暗闇に蔕をつけるという場合、暗闇はひとつの塊のように捉えられている。光のなかの事物のように見なされている。だが、もちろんこれは想像上のはなしで、現実には光のもとで闇を見ることなどできるはずがない。闇というのは光の欠如であり、光は見ることの条件だから、闇を見ることは原理的に不可能なのだ。そもそも闇は環境でこそあれ視覚の対象ではありえない。
見ることのかなわない闇は体験するほかない。闇の体験とは闇に包まれることにほかならない。あるいは、触覚的だといってもよいが、このようにして闇のなかに在るとき、それは果てしないものに感じられる。「雄大」という形容はその体感に由来している。
もちろん、夜のなかを東へ向かってひたすら歩みを進めれば闇は徐々に陽光のなかに溶け出してゆくはずだし、室内の闇は壁、床、天井によって区切られている。とはいえ深い闇の底にあって、闇に浸りきるとき、たとえそこが室内であったとしても闇は際限のないものに感じられる。そこには空間を示す視覚的な次元が存在しないからだ。広がりの欠落が想像的に無限の広がりへと転化するのである。
闇に眼を凝らすとき、闇は光のように眼の奥へと急速に入り込んで身体を満たす。しかし、それもつかのま闇は皮膚から滲み出るようにして外部の闇に溶け込んでゆく。皮膚に包まれた身内の闇が溶け出して、皮膚は有るか無きかの薄膜と化する。このとき、ひとは闇と対面しながら闇に浸り、
米朝のいう「雄大」の感覚は、内と外、開放と閉塞のこうした二重性に由来している。複雑な仕組みと言うゆえんだ。
それにしても、なぜ「なすび」の夢が縁起がよいとされるのか。一説には「成す」に通ずるからだというが真偽のほどは分からない。しかし、開かれながら閉ざされるという矛盾をはらむ経験が闇において成り立つのは否めない。その意味で「成す」説は一抹のリアリティを帯びる。
※引用は『米朝落語全集』増補改訂版第5巻(創元社、2014)による。
2023年9月25日改稿
2023年9月6日