女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし、絵かきはもっと他の方法で運動をあらわしている。
――朝永振一郎「滞独日記(一九三八年四月七日-一九四〇年九月八日)」より
「活動しゃしん」すなわち映画は運動する被写体を1秒24コマに収めることで、運動にまつわる自然な視覚像を再現する。いってみれば運動に似た状態を知覚にもたらすわけだ。DVDの場合は、コマ数がもっと多いが持続する運動を間断なく捉えうるわけではない。いってみれば近似解であって、正解ではない。とはいえ、しぜんな知覚を得ることが目的ならば、それで充分といえる。だが、充分であるとして、それは決して正解ではない。ここに引いた朝永振一郎の日記の一節はそんな循環のなかに思考が入り込む瞬間を思わせる。学問[サイエンス]におけるクリエイティヴなゆらぎ[、、、]といってもいい。
画家が運動をあらわす「他の方法」とは、いったい、どのようなものだろうか。アルベルティは、透視図法の説明において視覚のピラミッドを想定しつつ、その頂点は両眼の奥にあると述べているが、この頂点は両眼視差をやりくりする脳内情報処理によって見いだされる。透視図法は無限の均質空間を前提とする点において学問[サイエンス]に近いものの、両眼視差のやりくりは個別的な過程であり、その個別性に画面のリアリティが胚胎される。
しかも、視差のやりくりには身体の次元もかかわってくる。両眼は身体に埋め込まれているのだから当然のはなしだが、事柄の焦点は、身体が絶え間なく運動しているという事実だ。透視図法は、この事実を切り捨てることで初めてなりたつのであり、それゆえ、じっさいの視覚を正解とすれば、その近似解でしかありえない。生きている身体は絶えざる運動のなかにある。
ターナーが《吹雪――港の沖合の蒸気船》(1842)を描くにあたって、嵐の海に乗り出した船の帆柱に身体を縛り付けて4時間を過ごしたという逸話は、まさに、相関する身体と眼の事情を伝えている。身体の動きを、そして海や大気の動きを、ふたつながら宿すヴィジョンを、ターナーは得ようとしたのである。王立美術院展に出品されたときのこの絵の正式なタイトルには「作者は、エーリエル号がハリッジを出港した夜のこの嵐のなかにいた The Author was in this Storm on the Night the “Ariel” left Harwich」としるされていた。
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しかし、もちろん、揺れ動くヴィジョンを静止した画面にそのままもたらすことなどできはしない。では、どうすればよいのか。たとえば、ジョワシャン・ガスケがしるしとめた次のようなセザンヌのことばは、このアポリアを乗り越えるヒントを与えてくれる。山梨俊夫の訳から引く。
感覚は、充実しているとき、存在全体と一致する。世界のめまぐるしい運動は、頭脳の奥で、眼、耳、口、鼻が、それぞれ固有の情熱をもって感じ取る同じ運動のうちに溶けていく・・・・・。
このことばは、ターナーが吹雪の絵のタイトルで、みずからを画家ではなくThe Authorと称していることに思いを差し向けずにはいない。彼はヴィジョンを提示しつつ、五官が伝える海と身体の「めまぐるしい運動」を「頭脳の奥」を経て記述しようとしたのだ。古代の歴史叙述が重視したヴィヴィッドな実体験の叙述、すなわち「エクフラシスekphrasis」の精神である。
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科学と芸術の浅からぬ因縁に思いを誘う朝永振一郎のことばを教えてくれたのは、高野文子の『ドミトリーともきんす』という本だった。若い科学者たちの宿舎[ドミトリー]を舞台とする科学読み物である。住人は牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹、そして朝永振一郎。みごとにキャラクター化された若き日の四人の日常がコマ割り漫画スタイルで描かれ、そこに、それぞれの著作から引いたことばと短い解説が添えられている。
高野は、たとえば『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』にみられるような抒情的な線を抑えて、ここでは科学の解説書のイラストを思わせる硬質な描画を試みている。高野は「あとがき」にこう書いている。「わたしが漫画を描くときには、/まず、自分の気持ちが一番にありました。/今回は、それを見えないところに仕舞いました」、と。
「いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか」(「詩と科学――子どもたちのために」)という一行を含む湯川秀樹のことばで締めくくられている本書は、クールな詩情によって自然科学のかわらぬ清新な魅力にあらためて気づかせてくれる。地味ながら心に残る素敵な本だ。
2020年11月6日