女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
あゝ麗はしい距離[デスタンス]
常に遠のいてゆく風景……
――吉田一穂「母」、『海の聖母』(1926)より
「母」という「あらかじめ失われた恋人」(リルケ)にまつわるこの抒情は、一行の空白を置いて、次の二行で結ばれている。
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音[ピアニツシモ]。
SARS-CoV-2の白夜の季節のなかで、あらかじめ失われたつながりを、それでも敢えて希求する者たちは――ソーシャル・ディスタンシングが出現させる裂け目に身を横たえるようにして――PCのキーボードに向かい、おずおずと打鍵[キー]に触れる。打鍵[キー]から打鍵[キー]へと行き来する指先が探り当て探り出すひそやかな情動は、文字の姿をまとって、やがてインターネットの迷宮へと吸い込まれてゆく。そして、白夜の底の八衢[やちまた]を、ヴァニシング・ポイント目指して、消え入るように駆け抜けてゆく。けっして縮まることのない距離をこえて。
ポスト・コロナ時代のニュー・ノーマルが、あれこれ取りざたされているが、とりたてて新しいものが到来するというわけでもなさそうに思う。オンライン授業やテレワークなど、プレ・コロナ時代において既に孕まれていた可能性が否応なく、極端なかたちで広範囲にわたって次々と顕在化してゆくというのが、実際のところなのにちがいない。
ソーシャル・ディスタンシングが、やかましく言われるようになってから、リアルな空間を身体的に共有する濃密なかかわりがノスタルジックに語られるようになったけれど、こうしたメンタリティーは、インターネットが普及する過程で、だんだんと醸成されてきたところであった。ちなみにいえば、いまやマナーとなったマスク着用にしても、日本や韓国の若い人たちのあいだではCOVID-19の蔓延以前から一種のファッションとして既に拡がりをみせていた。
だが、疫病の蔓延による他の身体への怖れと、それゆえのみずからの身体への縛りとが、堪えがたいまでにノスタルジーを強化したことは否めない。また、これによって他者との関係に微妙な歪みや亀裂が生じたことも――あるいは、歪みや亀裂が際立つようになったことも――まちがいない。
ヴァーチャルな空間における他者との関係は、リアルな空間におけるそれと、はたして拮抗しうるのだろうか。そもそもリアルとヴァーチャルの境界などあるのだろうか。こういう思いが、「距離[デスタンス]」を詠じた吉田一穂の詩句を、センチメンタリズムをともないつつ思い起こさせるのだ。
2020年8月4日