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松島道也先生 最終講話

期日:1995年3月30日 
会場:相模原校地 図書館3階閲覧フロア

 学長最後の日に、僕の考えというより、僕がどういう風にして図書館に勤め始め、やってきたのかを話しながら、それに関連して僕の図書館の考え方とか、時代によって図書館が変わってきて、結果僕の思っている図書館像というのは、コンピュータ以前のものですから古いのですけど、それは逆の手本として受け取っていただいて構いません。
 漫然とした話になるかと思います。図書館はこうあるべきだという図書館概論的切り込み方はできません。
 僕は何時どうやって、この図書館に勤め、始めのうちの事情がこういう風なのが、こうなってきてと、いうようなことを簡単にお話しようと思っています。実は何回か、いろんな所で僕の送別会をしていただきまして、そこでしゃべるのは「火事」の話と「図書館」の話で、それぐらい僕の、女子美との関連というのは図書館が一番強い。
 僕は女子美を思い出すとき何を思い出すかと言われれば、学長のことなんて一番思い出さないでしょう。学部長の時の事とか、いい思い出がないですから。それに対して僕は、女子美時代というと、みんな図書館時代のことを思い出すし、一番心が落ち着いて仕事が出来ました。ごく最近まで図書館にいたわけですし、そういう意味で図書館を非常に身近に感じているし、自分の家のような感じがしています。 
 僕は先程から「図書館を作った」と言っていますが、僕が勤めた時には既に図書館はあったわけで、厳密には作ったとは言えない。今のような在り様の、図書館の方向づけをしたのは僕だろうと、そういう風に思っています。
 何度か送別会をしていただいた時、所々で話はしたのですが最初勤めた時は、昭和30年4月1日。杉並の校舎へ実際にはその2、3日前から来ていました。翌31年に開けた校舎が今も残っておりまして、正面の校舎を入って右側が教務、その向かいが図書館になっていました。その図書館の広さというのはここから階段くらい(15m)までの部屋と、それからその半分くらいの部屋が2つあるだけなのです。そして冊数はおそらく2、3千冊あったでしょう。それで僕の前任者は一昨年お辞めになった加瀬先生という絵画の主任。教員では今から5、6年前にお辞めになった奥山さんという語学の先生です。でも、実際奥山さんは語学の方だけで、図書館には全くタッチなしじゃなかったかな。加瀬さんひとりでやっていらしたのですよ。そこに新しく服飾科を出た人と、僕が勤めることになりまして、加瀬さんは絵の先生になるということで異動になりました。    
 それで仕事は服飾科の方と、僕との2人でやらなきゃいけなくなって、しかしどうやってカードを採っていいのかわからないのだけれど、その女性の方が加瀬さんから、直接いろいろなカードの採り方を習ったのです。それで、そのやり方でやっていらっしゃって、語学の先生を兼ねていた僕も、熱心にその仕事ぶりを見ていました。
 どうやるかと言いますと、まずカードを3枚と、昔のNDC(日本十進分類法)を1冊用意するだけ。本の情報から出版者、著者名、書名の3つを書けばそれがカードになるという、採り方でした。しかし共著の場合や、出版者ではなく編集という場合はどうしたらいいのか全くわからないのです。詮索好きの僕は、疑問があれば黙っておれないので、カードを3枚書くのはいいけれど、統一が取れていないのではないかと、疑問に思っていたのです。
 当時の学長であった加藤成之さんが「森鴎外先生は図書館長室のゆったりとした椅子に足を組んで、膝の上で洋書をこう広げていつでも本を読んでいる・・・・・君もそういう風な生活が出来るのだよ」と言われ、図書館に呼んで下さったのです。あの頃「館長」と言う職名がなく、他にいないから、対外的には「館長」と言ってみたり、「主任」と言ってみたり、昭和45年頃正式に職名が出来、初めて「図書館長」になったわけです。
 それで入ってみて、のんびりできるのかと言うとそうではなく、(目録の)疑問を悶々と考えていました。すると加藤学長が「図書館学というものがあって、司書の資格を取らないと、そういったことはわからないのだ。」と教えて下さり、僕は「今度入ったうちの若い者を、司書の資格を取りにやらせて下さい。」と言うと「君、夏暇だろ?君も行き給えよ。」と言われまして、その時まだ独り者でして、仙台に帰省する交通費も、もったいない次第でしたので、夏休みを利用して東洋大学の和田先生の、厳しいと有名な司書講習会に参加させていただきました。その時初めて「件名」、「副出」、「分出」などいろいろなことを覚えました。
 またその頃、短大教務部長の坂本さんのお父さん、教育大の先生から中学校までの件名の作り方を習ったのです。「ひと夏かけて、ありとあらゆる教科書の端から端まで出てくる単語を全て拾って、ものすごい数のカードにして分け、中学校までの件名目録を作った」という話を聞きました。
 そこで、目録規則というものがあることを知りました。カードというものは著者と分類の他に、いろいろな規則によって上に乗せるものがあると言うことがわかって、本によっては3枚で済むわけじゃなく、5枚も10枚も必要になることもある。そういうことを、初めて知りました。
僕は早速9月になって、目録規則を買いまして、それからやっとうちの学校の図書館が、始まったと言っていいです。
 それまでの女子美の図書館カードを3枚ずつ棄てながら、新しいものにすることに取り掛かりました。毎晩7時前に帰れるということは考えられず、独り身の気軽さもあり、もうひとりの職員と共に頑張りました。当時はコピー機もなく、ボールペンもそんなに普及していませんから、全部インクとペンでカードを作りました。ですから1枚ずつ、1枚ずつ、本によって何枚採るかを考えながら作り始めました。今、調べてみたら幾らか残っていますね。
 そして、僕が勤めた1年目の後半から、図書館らしい仕事が始まりました。とにかく冊数が少なかったので、本を増やそうとしました。
 しかし当時、今とは物価が違いますが、図書費というのは15万。ですから1冊2千円以上の本を購入する際は、事務長の所に相談する必要がありました。事務長は今度お辞めになる、石橋先生のお父さん。当時2千円といえば、スキラ(Skira)の四角い小型版、あれくらいのものから、相談に行かなくちゃならない。
 翌々年から、文部省の研究助成補助金にも出し始めたのです。この補助金が出来たのは昭和2、30年の頃。図書館として助成金を出した、最初の大学のひとつに入ると思います。(申請した)額の半分を大学側が出さなければならず、15万円の中からなんとかひねり出すのが大変で、高価な本が買えないのです。それでここの1階にある『ブロックハウス(Der Grosse Brockhaus)』の百科事典が第1回の助成金対象で、おそらく2万円くらいだったと思います。(所在:相模原参考図書 請求記号 034 / G88)
 それから2、3年後にはドイツで出た美術全集を、20万円くらいの評価を出してもらって申請しました。ですからうちの図書館が比較的上手くいったのは、初期の頃から助成金という制度の存在を知り、毎年それをいただいていたからなのです。
 また450万円ぐらいの『ブルン文庫』購入の際には、はじめ筑波大から「高額で発注出来ないがどうしたものか」と相談を受け、別枠で学校からの許可を出してもらいました。そんなに大きな額の申請をしたことがないものですから、今の局長の武藤さんに間に入ってもらい、350万円程の助成金をいただきました。その当時、(文部省の助成は)3分の2になっていました。最近『ブルン文庫』は、あまり使われないのが残念ですけれど、専門家が見たら絶句するコレクションではあるわけです。

ブルン文庫
ブルン文庫 ブルン文庫 目録カード類
外観-1 外観-2 目録カード類
ブルン文庫については本HPの中の広報誌関連記事にその記載がありますので、そちらもご参照ください。

「『ブルン文庫』について」
昭和56年1月27日号 No.64(図書館長として)

蔵書票
購入時についていた蔵書票

 僕がドイツへ行きましたのが昭和36年でした。その直前に(図書館は)吉田さんと有働さんとその他2、3名で館員は5名ほどになっていました。そのころから図書館の方向性の話題がちらほら出ていました。そこで館員との何日かの話し合いを4、5時間分リールのテープにとりました。ドイツへ行っている間に、現在ニケが立っているところの建築計画が立ち、ドイツの研究所に僕の意見を尋ねる電話がありました。電話代が高くつくので電話は数分で切り、自分の意見を手紙に書いて送りました。
 昭和39年にドイツから帰ってからは、私立大学図書館協会の成員として、ドイツへ行く前までは大学図書館協会と言う名で、そこで僕が意見をしたもので大学図書館協会員に誘われ、帰国後すぐに私立大学図書館協会へ企画の途中からの参加となりました。7、8人位で大学図書館のあり方というものを、ひとつの文章化したものにしようということで、活動をはじめました。それ以前に、私立大学図書館協会では「私立大学図書館運営要項」と言うものが既に出来ていて、大学の規模に対応した図書館組織のあり方、設置基準などが定められました。しかし、あまりにも理論的根拠がなく、実態に即していないのです。早稲田、慶応、明治など規模の大きな大学を対象に定められたもので、中小規模の大学図書館には当てはまらないものでした。そのため「私立大学図書館改善要項」というものを、積極的に参加して作りました。それが私大協会の理事会で可決され、中小私大における図書館の現実的な基準が明確になり、それを本学において有効に活用したのです。昭和40年代に入り経済的に安定してきた女子美ではありましたが、図書館運営資金の獲得は難しく、図書館改善要項の可決により、それを楯に基準に近づける努力をし、文科系の女子大と並ぶほど、実技系の本学でも図書費が確保できました。
 
 僕が私立大学図書館協会に関わっていて問題だったのは、「集中か分散か」という問題と、「図書館員の司書の専門職制度」、もうひとつ「指定図書制度」。
 僕は大学時代美術史の中で、特にギリシャの方の勉強をしていました。図書館には、あまりいい本は揃っていませんでした。けれども先生の部屋には、ものすごく立派な書架がありまして、必要なモノグラムが全部揃っていました。それでゼミの時なんかは教授の部屋で話しを聞くわけですが、僕は教授の書棚から興味深い本を探して、書名をメモしていました。その頃は図書館へ行って資料を集めると言うより、教授が「これを読みなさい。」と言う蔵書を、借りる方が多かった。それぞれの先生が、自分の書庫を持っていた。僕は美学美術史でしたけれど、それほど多くはありませんでしたが、本は置いてありました。一般の学生は卒論を書く時に、それぞれの先生の所へいろんな相談に行き、「じゃあ、これを。」ということで(本を貸して)もらうわけで、図書館で探す必要はないし、また図書館にはない可能性の方が、非常に多いわけです。良い専門的な本は公のものでありながら、個々の研究者の個人蔵書と同じ扱われ方で、半ば非公開で大学内に存在していました。この様な事態を図書館界では「分散」と言います。
 図書館でいくら総合目録を作っても、所在があまりにもばらばらで意味を成さないようなもので、本来図書館にあるはずの公のものが、全部それぞれの先生のところへ行ってしまっていた。先生のタイプにもよりまして、僕の先生は極端にそうでした。古い大学であればあるほど、強くそういう傾向がありました。
 戦後、アメリカの図書館はどうあったか。つまり、図書館がある研究機関や、大学において本の集中的な管理を行う。ただ単に目録を作ると言うだけではなく、収書の段階から図書館が中心となり、やるべきであって、死蔵されてしまい活用されていない資料を、上手く運用するためにも(集中管理は)必要なものです。
 図書館は収書・整理・サービスというかなりの範囲に、責任を取らなければならない。そういう機関であると、随分言われた。戦前の「分散」から戦後の新しい大学は、「集中」になるべきだと強く叫ばれていた。あの時代、司書職というものが新しく出来、司書は教育職と考え、大学図書館というと、どんな立派な経験を踏んだ見識のある人であろうと、教授会などから上に持ってこられるのはおかしいのであって、アメリカにおける図書館長というものは、「司書」から上がるのが本来。図書館長は普通の学部長と肩を並べるか、それ以上のものである。司書というものは、アメリカではプロフェッサーとほぼ同じように通用するのであって、そういう意見が非常に強く出たものです。
 「図書館というのは、他の部署とは違う専門的なものであって、司書職の制度が確立されたのならば図書館の人間が他の部署へ、他の部署から図書館へ来ても出来る種類のものではない」そういった今思うとかなり狭い考え方ではあったのだけれども、一時アメリカの図書館司書というものは非常に厳重なもので、講習会で貰ってくる司書の資格というものは、その一番基礎的なひとつの条件に過ぎない、本来そういう考え方であるべきなのに、日本の図書館界全体が司書の資格を持っていれば、そのままそういうものの上に乗せてしまっていいのだと、一寸した錯覚があったのですよ。図書館員を大事にしようと言う気持ちはあったのだけれども、それが必ずしも上手く機能しなかった。それは博物館なり、美術館の学芸員も一緒で、展覧会会場で椅子に座って監視をしている学芸員もいれば、研究員もいる。研究員は、学芸員資格を持っていなくてもなれる。専門としているものに造詣が深ければ、なれるわけです。それと同じように考えていれば、大学図書館でも司書の資格は最低限有し、語学が何カ国かでき、ある特定の分野において研究の発表があるとか、専門家に負けないような知識を持っているというような、うちの学校で言えば、美術についてのかなりの知識ということになるのだろうけど、そういうようなものを、考えていたのがひとつだったのですが、上手くいかなくなってしまったのです。 
 昭和40年代頃から司書の専門職性に対する意識は薄れ、主任の司書でも(図書館の)他へ移されるようになったのです。勉強すれば、どんな図書館でもある程度の任務はこなせると捉える傾向が強くなり、他の大学では資格がなくても同じように試験をして採った人を図書館へ配置するようなことが、いくらでも行われるように現在なってきたわけです。

 本の「分散」と「集中」は、それ以降も僕はいろいろ考えさせられました。「分散」と「集中」では、図書館の図書費がかなり違ってくるわけです。一般の大学の考え方では、まず本は専門のものを集める。教授が研究費で購入した図書が、お辞めになる際に(移管され)図書館の所蔵になる。例えば中世をやる先生が、お辞めになれば中世の本が増え、ルネサンスの先生がずっと勤めて、その先生がお辞めになればルネサンスが増え、研究分野の異なる教授、研究者らの専門図書により、各々の大学の専門分野の資料は少しずつ豊かになる。しかし、あるひとつの文献注記に紹介されているある雑誌のある巻号だけが、飛び飛びに所蔵されているということが多い。美術史系については特にその傾向が強い。日本美術については例えば『国華』だとかそういうものは、手近に入るものだから買っていました。西洋の雑誌となると丸善を通して、昔から買っていたもので、一貫して入っていない。一貫して入っているとお金が硬直化するので、必要なものだけ購入する。ですから雑誌は揃っていなくて専門分野に偏っているけれど、長い間にはだいたい均整がとれてくる。これが日本の多くの古い大学図書館の成り立ちであります。旧制大学には一般教育なんてものはありませんでした。入るとすぐに専門のことを勉強するという、それで通ってきたわけです。ですから図書館がある程度のお金を持っていたのでしょう。しかし、研究室の図書予算の総計に比べれば極少なかったのです。そのやりかたは、日本の大体の大学のやり方でした。例えば、戦後になりますと一般教育に必要なお金は図書館が持つとか、1学部分の図書費に相当するものを図書館が持つとか。そういうようなことで、図書館(予算)というものは各研究室に分配すると、図書費は微々たるものになり、さらにひとりの先生が同じ学部の複数の専攻を担当すると、受け持つ学生が多いため、必読書などは何冊も購入し重複してしまう傾向が強い。『美術手帖』や『みずゑ』などは、随分な数になるのでしょうね。そこで、うちの学校はどうやったかと言うと、うちは「集中」で行きましょうと決めたのです。昭和40年ぐらいまで、うちの図書費は非常に少なかった、それぞれの先生に行き渡る暇がなかった。
 現在、うちの学校の問題点は何かと言うと学生ひとりに対する予算が決まっていて、それで各専攻の年間予算を決めるのです。通常、予算とは積算で請求案が出されるものなのですが・・・・。そのため道具を多く使う専攻は、図書費を捻出する事が難しいのです。ではそういうやり方がどうして出てきたのかと言うと、昭和30年頃、経済的に裕福ではなかった頃、各科には充分な費用が行き渡らず「学生ひとりに対し、これだけお金を払うから、どうか各専攻で教育してほしい」という行いが、経済的に安定した現在も残っている。そのころ(昭和40年頃)は、図書館から図書費として研究室にお金を渡しても図書を買う気はおよそないような時代ですから。図書館しか、本を買わない時代だった。今の研究室は、図書費にだいぶお金を回すようになりましたけどね。少ないところはほとんど取っていない専攻だってありますね。そういうことを考えると、全学合わせても、(研究室図書費は)図書館の2割じゃないかな。

 僕が留学から帰って案を出し、それに基づき改善していくために、必要な費用というものを具体的に出し、問題の本を集めるという時の基本的な考え方は、何かというと、新しい大学だから一般教育というものは重要です。アメリカ風の単位の数え方と小人数でもって指定図書を中心にやって、そして在宅時、講義の時間以外のところで勉強する資料まで、図書館で備えなきゃいけない。だから学校の教師が「この次までにこの本を読んでから、授業に出るように。」と言われる。その本は、授業ではなんにもタッチしなくても試験の時、試験の範囲になる。こういう考え方です。つまり「自分でやってこい」という、だから講義1年1時間の範囲に、そういう2時間か何かが自分でやる自学自習の時間を含めて、何単位という風にやる。
 今度それがすっかり消えてしまいまして、授業の上、教壇の上で聞くだけが単位計算の基準になったので、平成3年か4年のあの大改革。すると、それと同時に本来は指定図書制というのも消えてしかるべきものなのですけれどもね、ちょっとそれはわからない。ですから同じ本を10冊でも、20冊でも買うべきだというのは僕なんかも、その当時人々には説明していましたし、現にうちでも10冊以上買った本がいくらでもあるのでしょう。同じ本。
 指定図書制を言いながら、指定図書制を知っていらっしゃる教育者が逆にいなかったのですよね。ですから指定図書制って、全く機能しなかった。参考書なら学生に教えるけれども指定図書を使っての教育というものを、どなたもおやりにならなかったわけです。
 それで、図書館というものが新しい学生にしたとき、一般教育の人文系とか自然科学、社会科学、この3つに分かれる。それぞれのものも全部集めなきゃいけない。それも図書館の仕事ではあるけれども、同時に大学と名のつくものであれば、どういうことを専門とする大学であっても、日本の学問の水準を、世界のトップクラスのところに保持する責任がある。そういうことをやるのは大きな総合大学にお任せするにしても、大学というものは、ある分野において学的水準を、世界の一番上のランクに保持する責任がある。そういうことが、僕の基本的な考えだったのですよ。それが、僕が向こうにいて向こうで研究所に入って、研究所というのは図書館というのかな、図書館と図書室の大きいのがあって、そんな所なのですけど、そこのエピソードを申しますとね、机があってそこに図書室がある。僕がいた研究室の図書室はかなり広いのでね、椅子も読むところはこの広さぐらいしかないのです。大体毎日行く人は自分の場所を決めて、そこに自分の本を並べておくのですよ、そこの横っちょの本箱から持ってきて。それで、バイエルンの中央研究所、これも立派なものですが美術の本がすごくある。そこもやはり、真ん中とか(よく人がいる)、それぞれ持ってきて読む。終わるときは元に返すか、続けて読むか。朝早くに来た者が勝ちなのです。同じ本を前の日、「あ、彼が見ているな。」と思うと狙いをつけておいて、翌日それよりも早く行って、その人のテーブルの上からその本を持ってきて、使い出します。それが優先権なのです、その日については。それは、僕のお世話になっていたところの先生方もそういう風にして、一緒に勉強なさった。いわゆる中央研究所は、特にそうでした。
 ドイツの学者は日本の学者ほど、個人のライブラリーを使ってないのです。それは、いろんな人から、本を貰いプレゼントされるものですから、嫌でも広がってはきます。けれども一所懸命買おうという意志は無い。それはどうしてかというと、「自分の研究所にそれがあればそれを使えばいい」という考えが非常に強いわけです。図書室では使い切れない、いつでもほかの人に取られてしまう、あるいは書き込みしなきゃいけない、これは自分でお買いになるだろうけれども、その他のものはなるべく図書館を利用しようという、一流の学者でも本(蔵書)というものは我々の想像していた程ではないですね。個人蔵書といいますのはね。
 ですから日本で、じゃあ学的水準をトップに上げていくには、どこがいいか。これはもう僕の専門が、一番いいのはわかりきっているのですけど。それには理由を付けなきゃいけない。つまりうちの学校では、やはり日本で一番できる、美術史の分野で良くしなきゃいけない、僕はそう思っている。ところが日本美術のレベルは、今からいくら頑張ったって東北大にはおろか東大は勿論、それから文化財の研究所、そういうような昔からの、日本はフェノロサ以来大変、日本文化研究が盛んだから、そういった機関には僕なんかが古本屋をどんなに歩いて、大騒ぎして集めたってとっても適いっこないのです。まあ、それでも比較的最近のものは、うちだって集めていますけれどもね。
 すると、西洋の部分になるわけです。僕は西洋美術史と言いながら、行って1年目は古典考古学の研究室という所で勉強したのです。で、2年目に古典考古学と勿論いつも使っている中央研究所、それから西洋美術史の研究所、ゼイテルマイヤー先生なのですけどね。その時こうなのですよ、日本のことを研究する学問と言うのは英語で言うとジャパノロジーで日本学ですよね。ドイツでヤパノロジーといいますけど、そこの学生というのは人数が多くない。ひとりの先生が日本学を教えていらっしゃる。この時、日本の何を教えているかと言うと、これは何でも教えられるのです。その先生は文学がお好きだったから、文学を教えていた。ところが数人の日本学は美術史で卒業するのに、日本の社会学で社会を研究するのも、何をやるのも、皆一緒くたなのです。というのはどういう意味かと言うと、学問と言うのは場所が遠く離れれば離れるほど、漠然とした絡み方でレベルが落ちていると言うことです。日本語もあまり日本文学のこともよくわからないのに、何をやればいいのか、ですから、日本美術をやるのは日本でやる人がやはり一番詳しい。「明治以降」とか「大正の美術」であるとか、いや「室町の彫刻専門」というように非常に細かく分かれているわけです。日本はやはり日本が重視で。
 日本でヨーロッパをやる時はどうかというと、僕はギリシャ美術が専門でギリシャばかりじゃなくて他のところも好きなのは、一杯あるのだけれどもギリシャ中心で、どこで習うかというと古典考古学へいってやらなきゃ…。ヨーロッパへ行って日本の「美術史」、「西洋美術史」にあたる科目というのは、「中世及び近世美術史科」と言うのがあるのです。だから中世以前から以来、今までというのは美術史科が扱われたのですよ。そしてヨーロッパ人にとってみたら自分たちの一貫した美術の伝統というのは、中世から後で、それ以前のものは自分たちの手本になるギリシャ・ローマの時代。という風に考えている訳ですから、そこのところをまた別の科で「考古学」、「古典考古学」というのは「ギリシャ・ローマ美術史」という。それは全然別の科なのです。ですから僕はギリシャ美術をやって、こっちも一緒にやりたいのだけれども、研究所において講義は両方聴きましたし、両方の研究室へ行って机を貰いましたけれどもね、2年目から。エジプトをやるのはどうかというと、今度はここじゃなくて「エジプトロジー」、「エギュプトロギー」とあっちでは言います。
 そういう風に別に。そういうようなやり方で、近寄って見ると日本のように概括、日本だったらエジプト美術ですからギリシャ・ローマからそれ以後のものみんなまとめてひとつの学問に入っている訳ですよ。ところが現場に行ってみると、そういうものじゃなくて、もっと専門的に分科しているのです。すると日本にきている雑誌は何かといいますとね、西洋美術関係が多い。中世以来のものが多くて、ギリシャ・ローマだけをテーマにした雑誌というのは、まずどこにも無いといって良いわけです。あるとしたら、例えばバーリントン・マガジンでさえも、まだうち以外にはあんまりオリジナルで揃っているところは他にはない。それでもバーリントン・マガジンだったらかなり読まれる本だから、繋がってはいないにしても、欠号ありでいろんなところにいっぱいあるはず。そういうような基本的な、あちらの方は学術雑誌がずいぶん昔から発展していますから、沢山出ているのですけれどもね。それがまぁ、場所によって、あるところまとめて買っているところもあるけれど、欠号が多い形で買われている。
 そしてその本が何かと言うと、大体「美術史」であって「古典考古学」の雑誌というのはほとんど無い。それで僕は帰って来て、じゃあうちの学校がまずやるのは、日本の西洋美術の研究をする上で、一番欠けている部分から始めよう。それが、丁度、自分で体験してきた「古典考古学」の分野だということで、考古学関係のものを。考古学というものは、考古学と書かれているからうちの学校では歴史の補助学問じゃないか、という感じを持たれるとすれば大間違いであって、「古典考古学」というものは「ギリシャ・ローマ美術史」と言い換えてもいい部分が非常に大きいわけです。「古典学」というのはドイツの場合は非常に違っていましてね、「考古学」という名前が付いていれば無条件に「ギリシャ考古学」というのは、「ギリシャ美術史」と考える。それから「ローマ考古学」も一緒にやる。ですから「考古学」というのは、日本で考える「美術史」だと、こういうふうに言えるわけです。それで考古学の本を集めだしたわけですよ。
 あの頃はまだ今よりも少し本代も安かったし、それに毎年の助成金をフルに使ったと思っています。雑誌というものがかなり揃って、それで雑誌も僕があちらで直接参考にした雑誌、初めて見る雑誌ばかりだったのですけど、それを見てある程度、目利きと言うのかな、この本がどういうような程度に役に立つのか、ということをある程度わかっていたものですから、そういったものから先ず入り始めて、それで集めだしたのです。
 ただ、お断りしておきますけれども松島がいたから、うちのギリシャ古典考古学関係はいいって、それだけのように言われる、それが非常に僕にとっては不本意であって。「ギリシャ考古学」は他の学校にはとても水をあけて、うちが優れていると思っていますよ。けれども、それ以後の美術史についても雑誌の分野では、これは他の学校よりやはり以上だと思っています。間違いなく。集める順序も初めどこから集めようかとギリシャ関係一本、頭に入れてビザンチンにしようかと考えて、ビザンチン関係は一橋の図書館が結構いろんなものを持っているというような事でね。ビザンチンというのは、あれは美術史の本じゃないのです。美術史を含んでその時代のキリスト教から、製図のことから何からみんな入っている本ですが、あそこにベルギーのものだとか、フランスのものだとか、ビザンチン関係、ないしあれも一橋が結構揃えているので、ちょっと後回しにしたのですけどね。
 それからあと、いわゆる中世以来、近代に至るまでの美術史も、例えばバーリントン・マガジン(The Burlington Magazine )、僕が集めた方では比較的古い方に集めたものですよ。あの時代としてはかなり、清水の舞台から飛び降りるぐらいのつもりで、買ったのですけれどもね。
 それから一方、手に入らないと思っていたものがリプリント版でもって、出ているというもの、レペルトリウム、フュア・クンストビッセンシャルであるとかいうものが次々と出てくるし、それからそういったような事があったもので結局、英、独、仏、それからイタリアは雑誌の「これぞ」というのがちょっと見当たらないのだけれど、そういうのも比較的有名なので、それからオランダ、スペインもちょっと入っていましたかね、そういう様なところの際立って有名な雑誌というものは、かなり揃えた。
 うちの揃え方というのが、そういう風に連続した揃え方をしているものだから、他の学校に羨ましがられる。他の学校の集め方が、欠本が多いというのは、その欠号じゃない部分を実際に必要として利用した先生がいらしたからであって、その結果、欠号のところは意識的に買わなかったわけですからね。それを埋めるのと、他の学校も段々その助成金を利用するようになり、経済的に豊かになり、うちに負けないようになって、武蔵美の西洋美術の雑誌は、どれくらいか調べたことはないのだけれど、まだうちの方がいいだろうと。そして、それはどこに理由があるかと言うと、美術史という範囲に区切ったから、それが出来たのです。これを一般教育の先生方、全部に好きな雑誌を、と言ったら、うちは哲学の先生が図書館長でいらしたから、時には哲学のヘーゲル全集、カント全集が入っているのは、その哲学の小瀬正吉先生は僕がドイツに行っているときにいらして、その先生が集めて。で、もし分けてしまえば、それこそ、それぞれの分野で専門の雑誌が、一番最初から非常に幅の広い選書でもってワーッと集めていけば、広くはなるだろうけれども、深まらなかったということです。ですから今後もどうするかというと、うちの学校の美術史の先生方がやっていらっしゃることは、とても面白いわけだから、それらの先生のおっしゃるものは、全部買って差し上げてもいいと思っている、雑誌は。
 その替わり極端に増えないです、もう他の大学の、文学部を持っている大学とは違います。だから心理学があってもいいし、もっと違う分野が哲学雑誌だって何種類もあるわけじゃないし、そういったものも買って差し上げているし、そういったことがヨーロッパの雑誌の文献にでも、そういうものをあげて、こうやって買って差し上げることは、うちの学的な水準を高める上には、全体としてはいいわけです。
 ただ、図書館としてやはり責任をあくまでも今後とも持たなければいけないのは、僕が始めた「西洋美術史」。言い換えると、今言ったような中世以後のいわゆる「美術史」と、「古典考古学エジプトロジー」、「キリスト教考古学」、そういうものをみんな含めた意味での「美術史」、「西洋美術史」の雑誌の領域を今よりも、もっと良いものがあれば買っていくという、そういうやり方をやることが本来だろうと思います。
 うちの一般教育の先生方、一般教育とこのごろ言わなくなったのですよ。言葉がなくなりましたからね。学科系の先生、みんなそれぞれおできになる先生で、原先生、林先生、同じケルトの研究を教えていますね。先生(恩師)が同じなのですよ、フンボルトの。その先生がプーケットの会議で、「僕の弟子が2人、(松島)先生の所にお世話になっているのですよ。」「ええ!?」なんて言ったら、「林と原だよ。」って。勝又先生もエーゲをやっていらっしゃるし、そういうとこところでは、なかなかいいのだと。それであそこに並んでいる近代の展覧会の目録を集めた。あれなんかが、大森先生でしょう。見ただけで分かりますけれども。あれも特殊な本ですからね。ああいったようなものも集まってくるということで、いろんな面でも、美術史全体としては良くなっている。深くて広い。ただあの単行本ですね、いわゆる2階のそっち側に入って普通の書架に並んでいる種類の本で、これは集めれば集めるほどいいのだけれども、きりがないのです。出来るだけ専門家の知識を入れることが必要ですし、それからもう一つはスタンダードだと思われるものは、素人でも表紙と中の絵と、字の分散の仕方で、ある程度は判別がつくものなのです。
 雑誌の買い方は皆さんご存知だろうとは思うけれども、昔は書誌についての本というのはあまり多くなかった。チェンバレン(Chamberlin)ぐらいしかなっかった。一割ぐらいしかなかった。その後どんどん増えて、皆さんご存知。うちはチェンバレンと、それからドイツ考古学研究所が出した、ちょっとカバーがこんな色のあれは有名な本なのですよ。あれはいい本です。
 書誌の雑誌の中で、全部集めようと思って手を回して駄目だったのですけどね。こんな数冊、今言いましたドイツ考古学雑誌。これがそういうようなものですね。それからチェンバレンが古くからあるわけです。それからルーカス(Lucas, Edna Louise)というこれが紙表紙のものでありますね。これはそんなに本が多くなくて、これ書いたルーカス、女の人だったかな、勤めてる図書館の所蔵品を中心にやった基礎的な単行本を書いているんですね。
Art books: a basic bibliography on the fine arts.

Art books: a basic bibliography on the fine arts.
所在:松島文庫 
請求記号 703 / L96

 この頃ね、古本の雑誌を見ますとね、一冊ずつ、これが非常に権威持ってきたもので、チェンバレン(Chamberlin)とそれから、僕のところにきているのはアルンツェン(Arntzen)、緑色の。それからこのプローズ、これは手に入らない。これはその何ページとか、あるいはページを書かなくてもこの本が出てきて載っているのは、かなり多いですね。ちょっとした古本のカタログとか美術のところを見ると、チェンバレンあるいはアルンツェン、それからプローズと、この三種類の名前、それに掲載されているということだけで、その本の値段が上がっちゃうわけですよ。つまりこの本に再録されて収録されている、という意味だけで。これはその古本のカタログ、表紙の裏表紙から写したものです。コピーで。うちはこの中でも、アルンツェンとドイツの考古学会でルーカスとチェンバレン、これ3つしかない。後のものはすぐ必要かと言うと、ちょっとわかりづらい。あとはイタリア語のものが1冊あって、それからこれは西ドイツ共和国の、美術史専門図書館にある雑誌の目録という意味。それから西ドイツの美術史系図書館図書の目録ですかね。雑誌ですね。一番この中で役に立つのはアルンツェンだろうと、それからチェンバレン。チェンバレンがこれ58年しか書いてなくてその後、エディションの新しいものがあるだろうね。この辺を参考にすれば、雑誌は。僕は将来ほしい雑誌をリストアップしたものがあります。それを頼りにしただけでもこれは、何シリーズ目になってとか、一番最初がどこで、この間は戦争中で出なかったとか、こういうのは何が中心に書かれているとか、何語で書かれているとか、他に英語中心にいろんなフランス語も入っているとか、そういうようなことまでちゃんと、いいものは間違いなく、アルンツェンには出ているのです。そのアルンツェンには単行本の他に、Qと書いてある項目(Periodicals)が、これ雑誌でしてね。それはもう雑誌が非常に細かく出ています。ただあの古本で出ている雑誌が、全部出ているかというとそうじゃなくて、古本のカタログの中に出ている雑誌でも、出てないものも結構ありますからね。うちにある雑誌はアルンツェンにあてはめて買った…アルンツェンが1980年ですからこれが。その前から買っているわけで必ずしもアルンツェンに当てはめたわけじゃないけれど、大体間違いなく入っている、美術史関係の雑誌です。もちろん僕がさっき言ったような意味で、考古学を含んでおりますけれどもね。ですからこういうアルンツェンあたりに対応している。
 図書を選んでいただく先生方は、大体決めてあるのだけれど、お互いに譲り合える先生を選ばないと面倒になる。以前あっちの学校で図書の選択委員会というものを作ったのですが、そういうものがあると先生方からの発言、提案が少なくなってしまう。たまに(選択委員の先生が)新聞広告の切り抜きを持ってこられたりするのですが、それは随分前に手を回してあるものだったりするのです。月報や週報で新刊図書の案内がくるので、その中から一般教養は館員が選択します。それ以外に美術史や専門的な内容は、担当の先生方の意見を聞いたほうが得ですから。しかし同じ分野の先生同士が譲らないタイプの方だったりすると、図書館が中間に入って、両方の図書を購入か、却下かを図書館長に委ねるということになります。チェンバレン*1と、アルンツェン*2に載っている雑誌はいいものですよ。

Chamberlin, Mary Walls. Guide to art reference books.Chicago: American Library Association,1959 Arntzen, Etta Rainwater, Robert Guide to the literature of art history. Chicago: American Library Association, 1980
*1:
Chamberlin, Mary Walls
Guide to art reference books.Chicago: American Library Association,1959
所在:松島文庫 請求記号 703.6 / C32
*2:
Arntzen, Etta
Rainwater, Robert
Guide to the literature of art history. Chicago: American Library Association, 1980
所在:相模原/杉並 参考図書 請求記号 703 / A78

なにか質問はありますか?火事のことですか?(笑)火事は昭和31年4月11日だったのですよ。杉並の校舎のほとんどが燃えたのです。2号館を入った正面に、2階に両側から上がる階段がありまして、その中央にヴィーナス像があったのですが、火事で倒れて、壊れてしまったのです。それで昔を知って最初からいる人が、ヴィーナス像を懐かしく思って新しく買ったものなのです。ですから最初あそこにヴィーナスが置いてなかったら、今現在ヴィーナスはなかったかもしれません。火事のとき図書館はというと、図書館自身は入ってすぐ広い広場があって右が会計と教務、こちらの向かいが図書室です。火事は、11日の午前2時頃でした。10日にまだ完成していない新校舎4号館に図書館は引っ越しをしていたので全く損害はありませんでした。リヤカーで、勤めていた方と、僕と、用務員の高柳のおじさんと、若いその頃勤めた人と、4人で校庭を隔てた今の4号館、下が出来ていて中央に入り口があるでしょう、その右の方だけ、1階分だけ(完成していた)。そこへ図書館が移った。その日に火事。図書館が移った後、かわりにそこへ衣服デザインの前身になる森クラスが入って、着物や衣装を運んだその日に火事にあいました。そしてそのころ造形科というのがなくて、服飾科のなかに図工コース(現在でいうデザイン科)というのがありまして、当時は服飾のほうがニーズは大きかったのです。(中略)今後の計画で何の本を買うのか、リストとして提出するように求めてきました。それでありとあらゆる本屋の目録(カタログ)を、あの頃の寮生10人くらい集めてカーボンペーパーで何枚も、審査員の人数分書類を作成し、カタログを眺め適当な図書にチェックを入れて、寮生がそれをリストにして僕がチェックをする。長いベンチに毛布1枚で、学校に泊り込みで約1週間、続けてその作業をしました。(中略)

質問者:現在、杉並と相模原に図書館が別れてしまったのですが、今後どのような収集を展開していくのですか?

松島先生:相模原のほうを、研究図書館の性格を杉並よりは強くせざるを得ないという状況なのだけれど。図書費を杉並と相模原の2校で分けるのですが多少こちらにウェイトを置いていただいて、今後予算が増えるならば相模原の方を重点的に増やすということです。(中略)

質問者:美術資料館と図書館との関係を教えてください。

松島先生:図書館長は学部から、美術資料館長は短大からという強い要請があり、短大の小澤先生が良い先生だったので、美術資料館長に選ばれました。僕は昔から、すぐのめり込むほうで先生方がだれも美術館をつくろうなんて、言い出さない頃から一人でさわいでいまして、まだそんな事が実現しない頃から、少しずついろんなものを集め始めました。資料がある程度集まったものですから、学校に交渉してあちら(杉並)の業務の一部分にして、湿度温度の一定した部屋を作らざるを得ないようにしました。それで、寮の一室をつぶして収蔵しました。その頃ちょうど、武蔵美が美術資料図書館をつくりました。美術館と図書館が一体となり資料(美術品と図書)を運用できるような、将来分かれるにしても、そんな美術資料図書館をつくりたいと考えていました。けれど、いろんな事情があったのでしょう、ここへ移転した時、僕は何もタッチしていませんでしたから、上(美術資料館)の管理の先生と、図書館の管理は別の先生に・・・非常に複雑に、そのまま・・・そして、いつか校地を増やすことになったら、美術資料館はここ(4階)からはずして美術館として独立させたいと思っています。上のフロアは書庫にも使える重量に、設計されているはずです。遠い将来には、赤字で大変でしょうが美術館だけは日曜日でも学外からの来館者も利用できるようにしたいです。(4階の)収蔵庫は狭いという事ですし、どこかへ移らなければならない。(図書館も書庫が狭いので)そうすれば、両方丁度いい。そこまで行くにはかなり長い道程があるだろうと思います。土地を広げたり、あるいは借りてもいいです。繋がった所に借りられた時に、美術館が優先されるかといえば、おそらくそうではなく、短大を4年生化するか、あるいは短大を小さくして3年次編入の枠を広げるための設備としてのほうが、優先されるでしょう。美術館が潰れても学校は潰れない。しかし、先生方の尽力のおかげで(美術資料館が)こんなに早く博物館相当施設になるとは思っていませんでした。おかげで今まで学芸員の養成は、他の美術館に頼んでいたのがこれからは学内でできるのです。
 しかし、どちらが先かと言えば、今うちの学校は、美術館が無くても潰れませんが、学生数が減ったら潰れますからね。学生数の全体の枠を減らさないようにするには、欠員が出る可能性がある所を、欠員が出ないようにする。短大指向を、4年制にする。あるいは、「ここの学校は短大の大半の方が、3年生への編入が出来ますよ」という形をとるか、さしあったっては、どちらかしかない。手っ取り早いのは、3年編入。3年編入を、定員化しなければならない。するとやはり、うちの学校の規模から言うと、今の土地でギリギリやって120人ぐらいです。僕の概算ですよ。

松島先生最終講話

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