女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
おまえとこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。
――フランツ・カフカ/池内紀訳「アフォリズム集成」(1918)
「この世」とは人間が生きる場というほどの意味である。場というのは、たんなる物理的空間ではない。そこでは、人と人、人と物、人と事、物と物、事と事とが、人間のさまざまな行為を介してかかわりあい、それによって複雑な意味連関を形成している。そういう入り組んだ生の場、それが「この世」であり、人間は、そこを離れては生きていけない。というより、人間でありつづけることができない。マルティン・ハイデガーは『存在と時間』のなかで、こうした人間の在り方を「世界-内-存在」と呼んだ。カフカの死と相前後する時期のことである。
カフカが書き残したこの逆説は、人間と世界のこうしたかかわりを踏まえるならば、比較的たやすく読み解くことができる。自分が戦う当の相手である世界に自分自身が取り込まれているのだから、戦い続ける自分であるためには、けっきょくのところ世界に味方するほかないという理屈である。
ただし、この理解は、あまりにも形式的すぎる。ここで目を凝らすべきなのは、こうした窮余の事態そのものだろう。世界に生を託すほかない存在が、その世界に異和をかもすところから、この不条理な事態は生じているのだ。はじめは、ほんの小さな傷のようなものだった異和が罅となり裂け目となって、世界との確執が深まり、拡がってゆく。疎隔感や息苦しさにふと気づくところから始まり、やがて堪えがたい痛苦の感覚が襲ってくるのである。
この痛みは意識の切っ先によってもたらされる。意識は、つねに何ものかへの意識であり、その意識の尖端が世界に差し向けられるとき疎隔感が生まれ、その疎隔感が世界と自己のかかわりの息苦しさに気づかせるのだ。しかも、世界と自己の裂け目は、「世界-内-存在」としての自己を介して世界にも――たとえば近親者のあいだに――痛みをもたらさずにはいない。
だが、世界との戦いにおいて世界に味方するというのは、「戦い」をやめることではない。世界を傷つけるのをやめるということではない。人間が意識をもつかぎり、それは不可能だ。「この世に肩入れをせよ」というのは、意識がいやおうなく世界に残す傷を、そのつど癒すということなのだ。
傷は致命傷でないかぎり治癒してゆく。積極的な治療が試みられ、自己治癒力もはたらく。そうしなければ世界に膿がまわりかねないし、自己が肉片のように世界から切り捨てられることにもなりかねない。
このようにして、ひとはいやおうなく世界に「肩入れ」することになるのだが、しかし、そこには傷痕がのこる。線維組織が盛り上がった瘢痕[はんこん]が出現する。傷の治癒によって世界は傷痕を印づけられ、それによってわずかながら姿を変える。わずかとはいえ傷は「この世」に生まれ死んでいった人間たちの意識の痕跡だから、その数ははかりしれない。世界は数えきれない傷痕と未だ癒えざる無数の傷とに覆われている。
このアフォリズムは手稿を見ると全文が鉛筆で抹消されているという。カフカは、逆説的なやり方で傷を癒そうとしたのにちがいない。
2022年5月12日