女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
なぜならば、病気というものは、あらゆる経験が明らかにしているように、形容詞なのであって、名詞ではないからである。
――フロレンス・ナイティンゲール/薄井担子、小玉香津子ほか訳『改訂新版 看護覚え書』(1860)
ナイティンゲールは、病気は自然の力による「回復過程a reparative process」であると考えていた。症状の悪化にともなう苦痛や鬱情を思うとき、病気を「回復過程」とする見方は奇妙に感じられるが、彼女は自説への反論を予想しつつ次のように書いている。自然の回復過程を阻害することから生ずる苦しみや痛みを取り除いたとき、病気ほんらいの痛みや苦しみが明瞭になるだろう、と。
自然の回復過程がまっとうに進行するうえで必要なものとは何か。看護に携わる立場から「患者が呼吸する空気を、患者を寒がらせないで、外気と同じように清潔に保つこと」だと彼女はいう。そして、酸性雨の発見者として知られるアンガス・スミスの大気汚染検査法を看護に応用する可能性にまで説き及んでいる。現在、わたしたちが手にすることのできるコンパクトなCO2濃度測定器は、その一実現形態だ。
そればかりか、彼女は換気こそ感染に対する「唯一の防御策」だとも述べている。もちろん、接触感染は換気によって防ぐわけにはいかないのだが、この期に及んで感染症の専門家たちが、新型コロナウイルスのエアロゾル感染に対する注意を喚起し、対策を政府に提言している日本社会の現状を思うとき、彼女の指摘は、にわかに新鮮なリアリティを帯びてくる。
☆
病気が回復過程であるとする根拠についてナイティンゲールは理路や根拠を示していない。無記の姿勢をとっている。だが、人間の身体にそなわる自然治癒力を思い浮かべれば、この見方は直観的に納得がゆく。
しかし、それ以上に重要なのは、病者を孤立させない発想が、ここに認められることだ。病気が回復過程であるならば、病と健康を連続の相で捉えるのは当然であり、じっさい換気にしても、病者にのみかかわる注意事項ではない。健康な人間の日常においても重視されて然るべき事柄だ。しかし、この当たり前のことにかんして、自分たちが意外と無神経であったことをCOVID-19 の経験は教えてくれた。
子どもや老人たちのように特段の配慮を必要とする人びとの日常にかんしては、ことさら換気と室温への配慮が重要であるのはいうまでもないが、これを実行するためには、なによりもまず見守るという行動が必要となる。冒頭のことばは、このような構えから発せられている。見守るべきは、「痛い」「苦しい」「辛い」「寒い」「暑い」などの「形容詞」を喚起する兆候だからである。
☆
では、「名詞 noun substantives」とは、いったい何を指すのだろうか。まずは病名と理解するべきだろうが、彼女は病名の背後に実体的な病因を想定する発想を否定している。「なぜならば」の前のところに彼女は「いろいろな病気が発生し、成熟し、そしてそれが他の病気に変化していく」のを目にして来たとしるしており、病気というのは猫や犬のような実体ではないというのだ。
病原体という存在が知識として念頭にある者からすれば、原因としての実体を否定する発想には違和感を覚えざるをえない。しかし、『看護覚え書』が 出版された時代は(初版1859)、微生物を病原とみなす細菌学の黎明期にあたっていたことを思えば、ナイティンゲールの病理観は、やむをえない歴史的限界として理解できるし、『看護覚え書』の数年後に刊行された『病院覚え書』(1863)では病原菌の存在を認めてもいる。
揺れがみとめられるわけだが、この揺れは“care”と“cure”のあいだの揺れのようにみえる。“care”は「世話」「配慮」「保護」「介護」「看護」などに対応する語であり、外来語「ケア」として日本社会に定着している。“cure”は「治療」「医療」「矯正」「治癒」「回復」などの語に対応し、外来語の表記は「キュア」である。
ナイティンゲールの知見は、「ケア」と「キュア」のあいだで、ただし、思いを大きく「ケア」へと傾けながら揺れているのだ。
☆
病気というものは、病者自身の受苦の意識も含み込む複雑な関係態であって、それを単一の実体に帰するのはむつかしい。このような病気の有りようを、「ケア」と「キュア」という概念で捉え返すならば、キュアに従事する者は、病原体はもちろん器質的変化の有りようなど「名詞」的実体性の方により強い関心を抱くだろうし、ケアの実践においては、先にもみたように、なによりもまず容態を示す「形容詞」的次元に注意を向けることになる。ナイティンゲールは、この両者に目を配りつつ思考を重ねていたがゆえに揺れが生じたのである。
ただし、揺れとはいいながら、“care”と“cure”という二つの語の『看護覚え書』における出現度は“care”の用例が圧倒的に多く、ここにも彼女の関心の焦点がケアにこそあったことが示されているのだが、彼女が健康人と病者をひとつづきの過程として見ていたのは、まさにケアへの関心ゆえのことであった。彼女は、こう書いている。
患者にどのような結果が生じるかについて正確な判断を下す能力があるかどうかは、その患者が生きているすべての状態についての探究のいかんにかかっているのである。
「その患者が生きているすべての状態」に対する見守り。これがケアの要諦であることはいうまでもないとして、このくだりの直後で、彼女は大都市の複雑きわまりない社会状況に言及している。ナイティンゲールに即して考えるならば、ケアとは、このような社会的広がりのなかで捉えられるべきものであり、しかも、それは時間的な広がりでもある。すなわち、ケアはキュアのはるか以前から、また、キュアののちまでも続いてゆく一連の社会的な過程なのだ。たとえば社会的に弱い立場に立たされがち老人や子どもたちは、つねひごろから特段のケアを必要とするわけだし、また、不治の診断をくだされた病者のようにキュアののちにもケアは続いてゆくのである。
このような見方に立つならばキュアというのは、ケアの一過程ということになるわけで、こうした認識は、医療現場における「対等-従属 equal-subordinate」弁証法の問題――すなわち組織上は対等であるにもかかわらず現場において看護師が医師の下位におかれがちな現状に対する批判的視座をも提供するのにちがいない。それはまた、訪問介護が医療の重要な一次元を成すに至った超高齢社会の現状にとっても重要な問題提起となるはずだ。
☆
この本で「看護」と訳されている元の単語は“nursing”である。“care”が“nursing ”と重なる意味合いで用いられている箇所もみられはするものの、基本的に“nursing”が「看護」に対応している。
しかし、ナイティンゲールは“nursing”という語に必ずしも満足してはいなかった。「私はほかによい言葉がないので看護という言葉を使う」と、はっきり書いている。薬の投与や湿布を貼る程度の意味で用いられていた“nursing”という語に違和を覚えた彼女は、その再定義を本書で企てたのだ。
「看護」を「ケア」と呼びかえ、高齢社会において注目度の高い“care ”という単語に繋げたのは、だから、本書の企てへの加担でこそあれ、けっして、それを歪曲することではない。あるいは、踏み込んでいえば、このようにいうことも可能だろう。“care”こそ“nursing ”の本体なのだ、と。
2022年3月9日