女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
元来国と国とは辞令はいくら八釜[やかま]しくつても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大変高くなつて来るのですから考へなければなりません。
――夏目漱石「私の個人主義」(1914)
いまや日常と化したウクライナ戦争の戦況報道は、侵略者による容赦なき破壊と殺戮のテロリズムを朝から晩まで飽くことなく繰り返し伝えている。戦場のありさまを捉えた生々しい映像は視聴者の「道徳」的感情をゆさぶり、記事やアナウンスは「徳義心」を刺激してやまない。たとえば、マリウポリの戦災で死んだ人びとの遺骸が黒い納体袋に収められ、親族に見送られることもなく、共同墓地の塹壕のような穴に次々と投げ込まれてゆくさまを目にするとき強い情動に襲われずにはいない。それにつれて「自由」「民主主義」「人権」あるいは「主権」といった啓蒙主義の置き土産が情動の色合いを帯びて喚起される。
ロシアが軍事介入したチェチェン紛争やシリア内戦でも同様の蛮行があったことは知られている。また、焦土と化したマリウポリの光景は、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃、日本軍の重慶爆撃、アメリカ軍による東京大空襲、NATOのコソボ爆撃へと連想をさそわずにはいない。「低級な道徳」にもとづく国家の「無茶苦茶」
SNSを介して、戦場からリアルタイムで送り届けられる動画は、揺れ動くフレームのなかに暴力性と身体性とをはらんで情動とも道徳意識ともつかぬ想いを鋭く喚起する。SNSはまた、ジャーナリストたちが命がけで取材した情報をシェアすることで、その影響力を増幅している。映像のリアリティは、フェイクニュースやプロパガンダによって至るところで綻びを生じているものの、それじたいが戦争のリアリティとして訴求力をもつ。
戦争は侵略者たちの道徳意識をも屈折したかたちで喚び起こしている。彼らは道徳意識と無縁の構えをとっているわけではない。みずからへの非難をかわすための口実あるいはカモフラージュとして道徳を利用している。病院や民間人の避難所に対する攻撃を指弾する声々に対して、それがどうしたと開き直るのではなく、攻撃しているのは偽装された軍事拠点であって、民間人を標的にしてはいないと繰り返し主張している。つまり、みずからの行為の道徳的正当性を言い立てている。
☆
厄介なのは、啓蒙思想に端を発する近代の価値観を蹂躙するロシアの行動が、冷戦体制崩壊後の世界を駆動してきた新自由主義[ネオリベラリズム]の似姿のように見えることだ。たとえば徴兵された若者たちを消耗品のように戦地に送り込むロシア軍の発想は、人間を「資源」として扱ってきた新自由主義の発想と異ならない。ロシアの若い兵士たちは日本の非正規労働者たちの姿に重なって見える。そこには非人道性という共通点が見いだされる。
いわゆる「西側」諸国の言論は、しばしば、この戦争について自由民主主義と専制主義の対決というお決まりの構図をもちだすが、新自由主義の蜜の味を知った口がそれについて語るとき寒々とした滑稽さを免れない。民主主義が専制政治を生み出すアイロニーはさておき、新自由主義の支配するところに民主主義は成り立ち難いからだ。
人間社会を市場に委ねる新自由主義は、「自由」の焦点を市場経済に絞り込むことで啓蒙思想に由来する理念的豊かさを削ぎ落し、経済格差によって中間層が衰亡するに任せて「平等」の理念を骨抜きにし、非正規労働者の過酷な生が物語るように「人権」をないがしろにしてきた。産学連携を既定のこととして高額な研究
そのうえ、新自由主義は新保守主義と相携えることでカビの生えた道徳観や民族意識の復活を促してきた。これを経済格差による社会の分断に対する備えとみることが可能だとしても、国家の介入を可能な限り抑制したい新自由主義の構えからすれば警戒すべき発想であるにちがいない。とはいえ、ナショナリズムや道徳にかんする権力の介入は、啓蒙主義への背反という点で新自由主義と軌を一にしている。人びとの内心への介入は「寛容」という啓蒙主義の掲げた美徳の否定にほかならないからだ。このような状況において自由な意志にもとづく民主主義が成り立つ余地を見出すのは難しい。新自由主義は「民主主義」の危機を醸成してきたのである。
☆
新自由主義が推し進めるグローバリゼーションのもとにあって、市場原理主義の非人道性に対抗する思想を練り上げ、鍛え上げる努力が為されなかったわけではない。しかし、それを社会的に定着させることができぬままに、今日に至った感を拭い難い。グローバリゼーションと足並みをそろえたインターネットの拡がりは、近代を脱却する動きを急激に加速したものの、啓蒙主義的理想に取って代わる脱近代の思想が、あらたな価値観や道徳意識を社会に定着させえたとはいいがたい。日本社会をかえりみれば、それに取って代わるべき近代の価値観や道徳意識が社会的に定着していたかどうかさえも疑わしい。
たとえば、このたびの戦争は生存権、自由権、幸福追求権など「自然権」と称される諸権利を、あらためて思いおこさせる契機となったが、わたしたちは、それらの権利を、また、それらを支える思想や道徳観念を、自明のこととして美辞麗句のなかに封印してきたのではなかったろうか。それらの権利の淵源について、あるいはその正当性について――「義務の首位性」(V.ジャンケレヴィッチ)という想念に至り着くほどに――深く思いをめぐらす思想的営為が、いったいどれほどあったろうか。人間の価値が資源価値として量られ、芸術的価値さえも貨幣価値で量られる時代のなかでこそ、それが問い直されてしかるべきであったと思われるのだが、その日月をわたしたちは、はたしてどのように過ごしてきただろうか。高踏的な理論は別として、なにげない日常のことばで――ということは、つまり美辞麗句の封印を解くようにして――このことについて沈思することが、いったいどれほどあったろうか。お定まりの批判は別として、状況の痛点を衝くリアルなことばを、わたしたちは有しているだろうか。みずからを省みて忸怩たる思いを禁じ得ない。
ウクライナ戦争が、あらためて突きつけて来る戦争の野蛮と卑劣、それとの対比において道徳主体としての自分自身を省みること、つまりは戦争を自分自身の問題として捉え返すこと。続々と送り届けられる彼の地にまつわる情報に接する日々にあって、漱石のこのことばは、そう促しているように読める。国家の「低級な道徳」に対して、お前の道徳は果たして高い水位を保ちえているか、と。蛮行を「最も強いことばで非難する」のだとして、その「ことば」とは――憲法9 条を踏まえたものであることは当然として――いったいどのようなものでありうるのだろうか、と。
この問いかけは切実だ。核戦争にもつながりかねない戦況が、事柄を自己の問題として捉える切実さを、SNSのリアルな動画と相俟って強化している。
☆
ロシアと、それを非難する西側諸国の鏡像的相似性は当然のことと思われないでもない。そもそも、1991年にソヴィエト連邦が解体されたのち、ロシアもまた新自由主義[ネオリベラリズム]が駆り立てるグローバリゼーションの動きに呑み込まれて今日に至っているのだ。人権や人道を踏みにじっていないと侵略者が抗弁するのは、グローバリゼーションにおける経済ネットワークから疎外されることを怖れるからだろう。
だが、事柄は、もうすこし複雑な様相を帯びている。
1990年代にアメリカ主導のグローバリゼーションによって憂き目をみたロシアは、2000年代に入るとプーチン政権が国家による市場への介入を強めることで活気立ち、それと並行して権威主義的な政治へと急速に傾いていった。これは、市場への政治の介入を嫌い、「小さな政府」を標榜する新自由主義に対抗する姿勢にほかならない。しかも、それがグローバリゼーションの経済ネットワークの内部での動きであることが、さきにみたような厄介な状況を形成したのである。
とはいえ、西側諸国においても、2000年代に入ると、リーマン・ショックを契機として新自由主義の市場原理主義に対する不信がひろがりをみせ、政府による市場への介入が行われるようになる。また、これと相前後してポピュリズムと権威主義が競り合うようにして台頭してくるのだが、そうした動きのさなかで到来したのが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックだった。市場原理では抑えようのないパンデミックは、「小さな政府」を標榜する新自由主義の脆弱性を決定的なかたちで暴き出し、「大きな政府」が――あるいは政治の介入が――翹望されることとなった。地球温暖化対策という国際問題も、その動きを加速した。
こうして急場しのぎに政治の発動が要請されることになったわけだが、「小さな政府」に甘んじてきた政治が、あたふたと試行錯誤を繰り返しているあいだに、状況の虚を衝くようにして、このたびの戦争が始まったのだった。
ただし、事柄は自由資本主義か国家資本主義か自由民主制か権威主義体制かといった体制的次元にとどまるものではない。また、単純な善悪二項対立で済む事柄でもない。
☆
グローバリズムとロシアの関係は、ヨーロッパをモデルとする近代化とスラブ的なものの確執を抱え込んできたロシア近代の繰り返しのようでもある。ナポレオンのフランスと、ナチスドイツに侵攻された記憶はNATOへの警戒心とまちがいなく連動している。ウラジーミル・プーチンの発想に「大ロシア主義」あるいは「汎スラブ主義」への思いが見え隠れしている理由も、おそらくここにある。プーチンは西側の新自由主義に取って代る普遍的価値を宣布しようとしているのかもしれないのだ。とはいえ、それが「大ロシア主義」という大国主義的パターナリズム(父権主義)に結びつくとき――たとい歴史的経緯に配慮しても――粗暴な独善の誹りはまぬかれない。
そればかりではない。そうしたプーチンの言動をロシア正教会がバックアップしている。これは、ロシアにおける皇帝が、実質上、正教会の長であったことを彷彿させずにおかず、このことがウクライナ戦争を深い陰影で包み込んでいる。このたびの戦争をめぐる問題は、どうやら中世にまで、その根を届かせているようなのだ。
ロシアと西側諸国のあいだに引かれたスラッシュは、おもいのほか深い亀裂を成しているらしい。しかも、宗教と国家の結びつきは、ひとりロシアにみられるばかりではない。信仰の内面性を脱して宗教と国家が結びあう現象は、政教分離という啓蒙主義の政治スタンスの根本的な見直しを世界各地で迫っている。
☆
SNSやマスコミが伝える数々の戦争犯罪は、加害者のみならず、それを非難する者たちの道徳意識を批判的に捉え返す契機ともなる。人間の諸権利を踏みにじる陰惨な戦闘の情報は、これまで当然のことと思いこんできた諸権利の場に、暗くて深い穴が、ぽっかりと口を開いていることに気づかせずにはおかないからだ。
この穴は、新自由主義が跋扈したグローバリゼーションの年月に打ち捨てられて顧みられなかった啓蒙主義の置き土産の墓穴にほかならない。それはまた、核ミサイルをたばさむ近代にとっての他者を育んだ闇の領域でもある。
この暗くて深い穴を覗き込んでみること。今日の危機にさいして、わたしたちを見舞いつつある出来事を了解するためにまず為すべきことは、これを措いてほかにない。
闇を覗き込むとは、探照灯によって闇を掘削することであり、そのあげく思いもよらぬおぞましい光景を目の当たりにすることになるだろう。それはまた、暗い穴の縁であやうくバランスをとっている自分自身の体勢に揺さぶりをかけることでもあるにちがいない。だが、この危うさを受け容れることなく、現在の状況を了解することができるとは思われない。
穴の底にうずくまる闇に眼を凝らすことによってはじめて、目の前に立ちふさがる近代の他者を揺り動かす言動に近づきうるのではないかと思う。体制として実体化された思想に混乱を引き起こし、その混乱のなかから未曾有の何かを掴み出す作業こそ思考の名にあたいするということを肝に銘ずるべきだろう。それは独善の愚昧から脱却する道でもあるはずだ。
☆
蒙昧主義は警戒すべきだし、喧嘩両成敗などと間抜けたことをいうつもりもない。
ロシアのウクライナ侵攻は、国際関係における武力行使を禁じる国際法に違反しており、その意味で不当といえる。ウクライナの軍事行動は個別的自衛権の行使であって、国際法に照らして正当性をもつ。しかし、「国際法」に則って事柄を批判するのとは別に、紛争解決に武力行使を禁ずる「法の精神」を成り立たせたさまざまな力のせめぎ合う場へ向けて、すなわち、深い穴の底へと降ってゆくようにして、予断なく思考を推し進めてゆく作業が必要なのだ。この作業は人間という存在が抱える闇の領域へと踏み込むことにほかなるまい。
漱石は、人間の不条理性を「底なき三角形」(「人生」1896)に譬えたが、「意識」と呼ばれる三角形の尖端から、潜在意識あるいは無意識へと開かれた不在の底辺へと下降してゆく思考に、戦争を押しとどめる即効性があるとは、とうてい思われない。しかし、いまこのときにあって、戦争が指し示す近代の奈落へと思考を差し向けることは、戦争ののちの世界へと思いを馳せることでありうるはずだ。ヨーロッパ近代の啓蒙主義が掲げた普遍性それ自体をあらためて普遍化する道筋として――近代が掲げた「普遍」概念を、文化的多様性を含み込むかたちで踏み込んで普遍化する道筋として――奈落くだりは避けてとおることのできない試練なのだ。それが啓蒙主義なるものをアップデイトする手立てでもあることはいうまでもない。
2022年4月28日