女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ
――よみ人しらず『古今和歌集』(10世紀初頭)
ピーター・J・マクミランが、『朝日新聞』に連載中の「星の林に」で、この歌を次のように英訳していた(2022年1月16日朝刊)。うつくしく、また正確な訳だと思う。
At the break of day
I watch in deep thought
a boat hidden by an island
at Akashi no Ura
in the morning mists.
ことに目を引くのは“I watch in deep thought”という詩句だ。これは、もとの歌の5句「~しぞ思ふ」にあたるわけだが、『万葉集』に多くみられるこの言い回しは、たいていの場合、遠く離れているひとをしみじみと思う意味で用いられている。こうした用例を踏まえつつ、片桐洋一は『古今和歌集全評釈』で次のように述べている。
「しみじみと思う」対象は、単なる舟ではなく、まさに「嶋に隠れ行く舟」であり、作者の目は、「朝霧」の中に姿を消してゆく「嶋隠れ行く舟」を包む景を情趣的にとらえている
舟を追う視線は、その姿を明視することはかなわない。霧のまといつく視線は焦点を定めがたい。「情趣的」とはそのような視覚的イメージを言い当ている。霧の奥へと漕ぎ進みつつ、舟がやがて島陰に隠れてゆく、その一部始終を見ていたとしても、視覚は常におぼつかなく、しかも、この経験が歌としてかたちを成すときには舟の姿はすでに網膜上には存在しない。記憶に由来するイメージとして思い浮かべるほかない。“in deep thought”という言い回しは、こうした消息を伝えてもいるように思われる。これは、片桐が「包む景」という印象的な言い回しをしたゆえんでもあるにちがいない。
このように考えてくると、霧の奥へとフェイドアウトしてゆく舟は「見ること」から「想い描くこと」へと視線を導く仕掛けであり、見方を変えれば外界から内界へのスウィッチのように思われてくる。その境にことばの舟はたゆたっている。明石の浦が畿内と畿外を分かつ境界を成していたことを、ここに重ねてみてもよいだろう。
つまり、「島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という句は、ふたつの世界を連接しているわけだが、この連接を可能にしているのは朝霧にほかならない。霧は、これらふたつの世界を成立たせつつ、それらを包み込んでいる。霧はふたつの世界を分け隔てつつ、ふたつの世界にわたってただよっている。
だから、想い描かれる舟の姿もまた、眼に映る姿と同じく曖昧に輪郭をぼかされている。遠ざかる舟の水脈[みお]は「見ること」から内的な「想い描くこと」へと折り返してゆく行路と重なるのだが、そこに立ち現われてくる想像の舟も霧のなかへ消え去ろうとしている。消え去ろうとして消え去ることなく、あたかも「ゼノンの矢」のように、いつまでもそこにとどまり続けている。
「島隠れゆく舟」が、霧の奥へと視線を誘い込んだあとには薄あかるい霧の光景だけが残される。そのとき、視界をうっすらと覆う水蒸気は、視線と共に身をも包み込まずにはいない。視線を吸い込む霧は、視線を伝って身に迫る。こうして、ひんやりとした“the morning mists”に身を包まれる感覚がもたらされる。
一首の眼目は去りゆく舟である。遠ざかりながら、決して消え入ることのない舟のヴィジョンこそ一首の鑑賞の尽きるところである。しかし、そうだとしても、一首をめぐる思いは鑑賞を越えて、さらに遠くへといざなわれずにはいない。舟も島影も霧の奥に消え去り、すべての形象が消滅するところへと思いは惹きつけられてゆく。そして、一首の眼目は、舟も島も、そして、それらを眺める身をも包み込む朝霧へと徐々に転じてゆく。
動きつつとどまりつづける舟の残影をうっすらと宿すほのかな朝霧、その立ち籠める水蒸気にまつわる「物質的想像力」(ガストン・バシュラール)が、消え去ろうとする形象の彼方で、わたしたちを待ち構えているのである。
2022年2月18日