女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
―― 覚 和歌子「いつも何度でも」(詩集『ゼロになるからだ』所収)より
たとえば千の位に0が記されている場合、その位がからっぽであることを意味している。ただし、それは無ということではない。位取りにおける場所を有しているからだ。
「無」は「有」の対義語だが、「空」は有と無を絶したところにあらわれる。位取りされることにおいて無ではなく、内実が空っぽである点において有でもない。0は無でもなく有でもない。あるいは無でありながら有でもある。それは有と無の二項対立を超えている。
0は死の隠喩でもある。「ゼロになるからだ」というフレーズは死を思わせずにおかない。
ただし、「ゼロになる」というのは、たんにこの世から消え去ることを意味するのではない。「ゼロになるからだ」の輪郭や位置は、かつて自己が居た現世に属し、存続している。はじめは死骸として、やがて俤として。
「ゼロになるからだ」に「いつか」、「ついには」などの語を補って読むことも可能だが、「はじまりの朝」はすでに訪れつつあり、しかも、このフレーズでは一日の「はじまり」である朝が、別次元の「はじまり」に位置づけなおされている。「はじまりの朝」とは特別な朝であり、決定的かつ終局的な転換を思わせずにおかない。ここにいう「はじまり」とは、つまり死のことであり、「はじまりの朝の 静かな窓」に映し出されるのは、自己が消え去ったのちの、あるいは消えゆく自己の光景なのである。「はじまり」はつねに「おわり」であり、死という名の「おわり」こそほんとうの「はじまり」、すなわち「おわり」なき「はじまり」なのだ。
「充たされて」ゆくというのは、だから、現世的には空位となった自己の場所に、自己ならざる何かが流入してくるということ、踏み込んで言えば宇宙のエレメントが――それはかつて自己を成り立たせていたものでもあるのだが――流入してくることを指す。そこが空位となったのは、いうまでもなく自己なるものが解体し、流出していったからであり、そこに生じた真空は世界のエレメントを引き寄せ、そこに流入させずにはおかない。そういえば、からっぽの「から」は「からだ」の「から」と語源を同じくしている。
「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」とはoutとintoのダイナミズムであるわけだが、思えば、これは生きてあるあいだにも見出されるところであった。呼吸のメカニズムに想到するならば、このことは即座に了解できるだろう。この詩句は「生死一如」の境位を指し示している。
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
この詩はアニメ『千と千尋の神隠し』の主題歌として親しまれており、木村弓の曲に乗ってカラオケでも愛唱されているようだ。
先日、二年ぶりに同世代の友人二人とカラオケに行って、心ゆく時間を過ごした。この歌が選曲されることはなかったが、静かでほのかにあかるい友人の歌声を聴きながら俗謡の力というものを改めて感じた。
ぼくらの胸の奥深くに張られている琴線に触れるものが俗謡にはある。というか、俗謡によって初めて響きを発する心の琴線というものがあって、ある瞬間、覆される宝石ように弦の音がきらめく。そのきらめきは、時に、虚飾を去った真実の輝きのように思われもする。この真実は俗世に生きる愉楽であり、また、寂寥でもあるだろう。もういちど、「いつも何度でも」から引いておこう。
かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
2022年1月11日