女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
ぼくは「消極的能力[ネガティヴ・ケイパビリティ]」のことを言っているのだが、つまり人が不確実さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる状態のことだ
――ジョン・キーツ/田村栄之助訳 ジョージ及びトマス・キーツ宛書簡(1817)
1817年の年末にキーツが二人の弟に宛てて書いた手紙の一節である。negative capabilityという言葉は、現在ではしばしば人生訓や処世訓として持ち出されるが、この言葉ほんらいの焦点は別のところにある。これに先立つくだりには「特に文学において偉大な仕事を達成する人間を形成している特質、シェイクスピアがあれほど厖大に所有していた特質」とあるのだ。この言葉は芸術家の資質を言い表わすために持ち出されたのである。
ただし、芸術家といっても、これを近代におけるそれに引き付けて捉えるとまちがえる。キーツは、個的な主観に根ざす近代芸術の有りように対して違和を懐いていたからである。この手紙の翌年に、ある手紙のなかで彼は「詩的性格」についてこう書いている。「それはあらゆるものであり、また何ものでもない――それは性格をもっていない」、それゆえ「物事の暗い面を味わっても、明るい面を味わう場合と同様害を生じることがない」、と。negative capabilityを再定義しているわけだが、さらに、これを次のように展開している。原語を丸括弧のなかに記して訳文を引く。
詩人というものはこの世に存在するものの中で最も非詩的なものだ、というのは詩人は個体性(Identity)をもたないからだ――詩人は絶えず他の存在の中に入って、それを充たしているのだ――太陽、月、海、それに衝動の動物である男や女は詩的であり、不変の特質を身につけている――詩人にはそれが何もない、個体性がないのだ――(・・・)詩人が自我(self)をもたないとすれば、そしてぼくがその詩人なのだとすれば、それはもはやぼくが詩を書いているのではないと言ってもどこに不思議があるだろうか。(リチャード・ウッドハウス宛 1818年10月27日)
キーツは、個体性[アイデンティティ]をもたないこうした詩人の在り方を「カメレオン詩人」という語に集約している。では、カメレオンであることは詩人に、いったいどのような経験をもたらすのだろうか。同時期のある手紙に「雀が窓のそばにくればぼくもその存在の一部となって砂利をつつく」と書かれているのは、それを察するよすがとなる。しばしばキーツを訪れた放心状態は、いわばnegative capabilityの初期設定[デフォルト]であった。
もうひとつ例を挙げれば、漱石の「草枕」で、語り手の「画工」が詩人や画家について「彼等の楽は物に着するのではない。同化して其物になるのである。其物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ」と言っているのは、「カメレオン詩人」の有りように重なる。これはウィリアム・ワーズワースにまつわる一節なのだが、この詩人はキーツにとってアンビヴァレントながら敬愛すべき先達であり、ワーズワースの「聡明な受身 wise passiveness」(「訓戒と返答」)という発想はあきらかにnegative capabilityに影を落としている。
キーツの想い描くこのような詩人像は、近代の一般的な芸術家の有りようとは似ても似つかない。それは極言すれば空っぽの人間であり、内面を抱え込む近代の芸術家とは大きく異なる。英詩の近代を体現するキーツには時代の底を踏み抜くような過激さがある。
個性[パーソナリティ]からの脱却を説くT.S.エリオットの先蹤をそこに見いだすことも可能だけれど、キーツの発想の矢はエリオット以後の現代の最深部にまで届いている。現代芸術の根抵に見出される痩せ[、、]の豊かさ、あるいは否定性によって浮かび上がる可能性――たとえばジョルジュ・バタイユの「非知」、モーリス・ブランショの「無為」や「非人称」、そしてジョルジョ・アガンベンの「非の潜勢力」など――の近くにnegative capabilityのキーツは位置している。
もしどうしてもnegative capabilityを拠りどころに人生訓や処世訓を語りたいならば、このことを――潜勢的にであれ――踏まえてかかるべきだろう。さもないと、negative capability は絶えずpositive capability へと回送されてしまうであろうから。
※[、、]は「痩せ」の傍点。
2024年1月12日