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TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第45回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

むかし此の頃の事どもも人に欺かれしを、我又いつはりとしらで人をあざむく。よしやよし、寓[そら]ごとかたりつづけて、ふみとおしいただかする人もあればとて、物いひつづくれば、猶[なお]春さめはふるふる。

――上田秋成『春雨物語』序(1808‐1809)

 

なるようになれと思い決めて嘘っぱちを書きつづければ、春雨が降るわ降るわ――かつて、ものを書くとはこういうことだと教えてくれるひとがあった。しかも、そのひとは、評論の書法にかんして、このことばを引いたのだった。こちらとしては虚を衝かれた思いだった。評論が嘘っぱちであって良いわけがないからである。しかし、相手は手だれの、しかも年長の文芸評論家であったから、単純にお門違いと責めるわけにもいかない。では、これをどう解釈すればよいのだろうか。口に出すことはしなかったけれど、そのとき頭にあったのは、こんな考えだった。評論が嘘っぱちであってはたまらないけれど、この秋成のことばを、ものを書く事が不可避的にはらんでしまう嘘について語ったものと解すればどうだろう・・・・。

 

 

『春雨物語』は歴史物語を柱とする作品集であるから、ここに引いた序のくだりは物語と歴史叙述の境界の曖昧さについて述べているとみるのが妥当だとしても、他人の言にだまされた自分が、それを偽りと知らずに他人に伝え、意図せずして他人を欺くという冒頭のくだりは、歴史叙述一般にかんする意見として読むことができる。

 嘘っぱちを書き並べておきながら、真っ当な書物としてありがたがらせる人物もあるのだから、というくだりは皮肉にすぎないとしても、史にかんする秋成の洞察は鋭い。歴史研究に携わってきた者として身につまされるところがある。史料が信ずるに足るものかどうか、これを判断するいわゆる史料批判は歴史研究の死命を決する重大事であるからだ。

 とはいえ、ことは史料批判にのみかかわるわけではない。それどころか、このくだりは秋成一流のソフィストケーションと読むこともできる。『春雨物語』に収められた諸篇は、歴史物語の体裁をとりつつ、そこからの離脱を企んでいるからだ。史書を踏まえつつ、しかし、「作者の思ひ寄する所」(「ぬば玉の巻」)を際立たせようとしているのである。秋成は、そのために虚構ということばの権能を行使している。そして、その権能は、また、ことばの宿痾でもある。真実を語ったつもりなのに言葉が虚妄の綾を出現させてしまうという経験は珍しいことではないし、虚言のなかに一抹の真実が含まれているというのも、しばしば経験するところだろう。

 こうして、冒頭の一節は、歴史がことばによってしるされるという事実がはらむ問題へと思いをいざなう。文章を書くことの落とし穴、すなわち、表現しようとする何かを完璧に言い表わすことの困難ゆえに文章がはらむかもしれない嘘へと思い至らせずにはいない。

 

 

書くことが嘘をはらんでしまうことを鋭敏に自覚しつつ、しかし、その自覚を抱いたまま敢えて書くことを始めるにはどうすればよいのか。「よしやよし」というのが秋成の答えであった。すなわち、なるようになれ――という気合である。

 序の書き出しは「はるさめけふ幾日[いくか]、しずかにておもしろ」であり、春雨が幾日も静かに降りつづく短歌的抒情性に充ちた情景を書きとめているのだが、「春さめはふるふる」という独特な表現は、それと決定的に異なる語感を響かせている。そこには、せき立てるような雨音に重なる捨て鉢ともいえる気分がある。ためらいや呵責からの飛躍がある。見る前に跳ぶ蛮勇といってもいい。「よしやよし」という気合が、この印象的な言葉を呼び起こしたのだ。この気合には諦念の響きがこもっている。

 秋成が草稿類を庭の古井戸にまとめて放棄したことはよく知られているが、この行為もまた「よしやよし」という気合にかかわる。ひたすら書きつづけ、書き溜めたものを井戸に投げ込むというこの奇矯な行動は、読者を想定することなく書き続ける実践、純粋なエクリチュールへの没入を思わせずにおかない。書くことへのひたむきな欲望が、ことばの宿痾に由来する後ろめたさを追い越しつつ筆尖を突き動かし、あるいは、吸い込むように筆尖を引き寄せる。

 

 

あのとき、くだんの評論家は皮肉そうな笑みを浮かべたまま黙り込んでいたが、『春雨物語』の序に評論の作法を見いだす指摘は、乱暴ともお門違いともみえて、じつは書くことへの繊細な、それゆえ先鋭な構えを教えていたのだと、ここまで書いてきて、はじめて腑に落ちた気がする。あれは独善と鈍感を排する書くことのリアリズムの教えであったのだ、と。

 

2023年4月17日
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