先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第32回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

幅のひろい水によって大陸から隔てられ、尊大な気分によって僚友たちから隔てられたまま、彼は、極度に分離した、連絡のない姿となって、髪をひらめかせながら、ずっと向こうの海のなかを、風のなかを、霧のごとく無際限なものの前をそぞろ歩いていた。

 ――トーマス・マン/実吉倢郎訳『ヴェニスに死す』(岩波文庫、2000)

 

すでに富と栄誉を手にした初老の作家グスタアフ・アッシェンバッハを旅へと駆り立てたのは「内心の空洞と生物学的な衰微」であった。「内心の空洞と生物学的な衰微」というのはアッシェンバッハが描き出す人間像にかんする評言だが、思うに、これはアッシェンバッハ自身にも当てはまる。年齢をかさねるにつれ、この作家の作風は奔放性や新味のある陰翳を欠くようになり、硬質な定型性を帯びるようにさえなっていたからだ。「生物学的な衰微」を克服し「内心の空洞」を生気で満たすために、とりあえず遠国の空気につつまれて怠惰な「即興的生活」を送ることが――優雅な無為が――必要だと彼は考えたのである。この心的「空洞」と生物的「衰微」が出現させるモアレの変幻として、あるいは、心身における凋落と賦活のアイロニカルな矛盾として、この小説は展開してゆく。

 

心身を恢復させる「即興的生活」を求めて訪れたヴェニスで、作家は小説のタイトルにあるように「生物学的な衰微」の極に立ち至ることになるのだが、衰微の兆は早くも小説の冒頭に見いだされる。真新しい十字架や墓碑の並ぶ石工場の柵に沿って、アッシェンバッハが五月のミュンヘンを散歩しているところから、この小説は始まるのだ。そればかりではない。彼の旅心を誘ったのは、散歩の途中、夕日に照らされる斎場で目にした不思議な異国風の男の姿だった。

 

旅の行き先をヴェニスに選んだことにも衰微の徴候が見いだされる。かつて同じ季節に訪れたヴェニスで彼は健康を害したことがあるのだ。潟[ラグーナ]の腐臭を運ぶ湿った熱風[シロッコ]に体調を崩したのである。それにもかかわらず、アッシェンバッハがヴェニスを滞在先に選んだことには、この初老の小説家の無意識の傾斜が示されている。彼は執筆のために肉体的な基盤を整えようと意図しながら、それと矛盾する行動をとっている。すなわち、生の充実を求めつつ、彼は「死の欲動[タナトス]」に駆り立てられていた。あるいは、逃避的に「死の欲動[タナトス]」に心身をゆだねようとしていた。

 

船路[ふなじ]でヴェニスに着いた作家は、ゴンドラと小型蒸気船[ヴァポレット]を乗り継いでリド島のホテルに向かうつもりであったが、差し出がましい船頭[ゴンドリエーレ]によって、ゴンドラに身を託したまま目的地まで運ばれてゆくことになる。「ほかのあらゆるものの中で棺だけが似ているほど、一種異様に黒い、このふしぎな乗物」に揺られて作家は死地へと導かれてゆくのだ。ゴンドラが棺であるならば、船頭[ゴンドリエーレ]は、さしずめ冥府の渡し守カロンというところだろう。

 

 

ホテルに落ち着いたアッシェンバッハは、やがてホテルの泊り客のなかに端正な顔立ちの少年を見いだし、たちまち心を奪われる。ロビーで、食堂で、エレヴェイターのなかで、ホテルの宿泊客専用の渚で、彼は少年を見る。その姿を追い求める。作家は、タッジオという名のそのポーランド人少年を古代ギリシャ彫刻になぞらえ、あるいは、生きている古代ギリシャ彫刻と見なして嘆賞する。彼は、純粋に完成された形式が比類のない個性のなかに実現されている姿を、そこに見いだしていたのである。

 

普遍的な形式が個別的な存在として実現するというのは一種の矛盾であり、この矛盾は優れた芸術作品というものの特質といえるのだが、しかし、それはやがて危険な裂け目となってアッシェンバッハを呑み込むことになる。そのように小説は展開してゆく。心を介して生を整え、秩序を与えるはずの形式が、形式それ自体の放つ魅力によって心を捕えることになるのだ。

 

こうして、アッシェンバッハはみずからの外部に、魅惑の源泉として形式を見いだすことになる。それによって生は、みずからを内在的に秩序づける形式から解き放たれることになる。いいかえれば、形式とのあいだに隙間が生じる。このことは作家が、ディオニソスの狂宴の夢を見る場面にはっきりと示されている。ディオニソス的なアモルフな生への渇望に彼を駆り立てたのは、もちろん少年の存在だった。ホテルの宵のテラスでタッジオが彼に微笑みかけたとき、老作家は動揺し、急いでその場をはなれ、おののくようにしてつぶやきを洩らす。Ich liebe dich!、と。

 

陳腐ともいえるこの愛の決まり文句は、空洞を抱え込んだ内心を共鳴胴[サウンド・ボックス]として、作家の満身に響き渡る。この響きの谺のようにタッジオの面影が「内心の空洞」を一挙に充たし、溢れ、内心の形式を見失った初老の作家を呑み込んでゆく。みずからの思いが、品位も威厳もない常套句を介して認識にもたらされたとき、彼は、その認識を梃子として影像へと身をまかせることになる。形式Formと生Lebenの裂け目から出現した面影Bildに呑み込まれてゆく。

 

 

ゲオルク・ジンメルは1916年のエッセイ「文化諸形式の変遷」のなかで、「創造的生はたえず、(中略)固有の存在権をもって生に拮抗するものを生み出す」と指摘し、「生に拮抗するもの」を「形式」の語で言い止めている。その形式は、生のダイナミズムから産出されるのだが、そのダイナミズムゆえに生は形式を喰い破ろうとせずにはいない。こうした矛盾にジンメルは文化の本来的な悲劇性を認める。そして、同時代の芸術を未来派に代表させつつ、このようにいう。酒田健一の訳から引く。

 

生の発現がこの矛盾を避けるためにいわば形式を脱ぎ捨てたあらわな姿でおどり出ようとするとき、そこにあらわれるのはおよそ理解を絶したもの、わけのわからない叫喚であって、明確な発言ではない。そこには統一的な形式が当然はらんでいるあの矛盾や異質なものへの硬化がないかわりに、結局はただ、こなごなに粉砕された形式の破片のカオスがあるばかりである。

 

『ヴェニスに死す』が書かれたのは1913年、ジンメルのエッセイが書かれる3年前のことである。マリネッティの「未来主義創立宣言」の発表が1909年であり、運動体としての未来派はムッソリーニ政権発足後の1920年代半ばまで続くから、この小説は未来派の活動期に執筆されたということになる。つまり、『ヴェニスに死す』のトーマス・マンは、そして、グスタアフ・アッシェンバッハは、未来派が「こなごなに粉砕された形式の破片のカオス」へとなだれ込んでゆく時代のさなかを生きていたのである。日本に目を向ければ、生命主義的な表出を標榜するヒュウザン会(1912、1913年)が開催された頃のことだ。

 

しかしながら、アッシェンバッハは「わけのわからない叫喚」に陥ったわけではない。むしろ、タッジオの姿に触発されて古代ギリシャに心ひかれつつ古典的な形式性に従う文章を書こうと試みている。もとより「死の欲動[タナトス]」突き動かされている彼が、「生に拮抗するもの」を否定するわけがない。だが、彼は、形式の規律に生をゆだねているわけでもない。

 

彼の眼に映し出されるタッジオのうっとりするような姿は、アッシェンバッハが野放図な生と形式の規律との裂け目に活路を見いだしていることを示している。彼は、生の脱形式化がもたらす無秩序を、形式と生の裂け目から出現する影像によって回避しようとしている。作家を捕えている形式それ自体の魅惑とは、タッジオという個的な生においてあらわれた形式の魅惑であり、ここにおいて形式は、生にまつわる影像へと変成せずにはいない。形式的秩序でもなく、アモルフな生でもない影像の次元がそこに現出する。心身における凋落と賦活のアイロニカルな矛盾が、このようにして回避されるのだ。

 

美少年の面影に捕らわれた作家は、ついには、みずからをも面影と化そうとするに至る。ヴェニスへ向かう船で見かけた醜悪な若作りの老人さながらに、アッシェンバッハは理髪店で白髪を染め、化粧を施すことをみずからに許す。不毛な老らくの恋に身を焼かれる作家は、影像という粉飾によって「生物学的な衰微」からの逃避を計るのである。

 

 

そのころ、ヴェニスでは疫病がはびこりはじめていた。しかしながら、流行の事実と、その病名とは、社会経済を慮る当局によって滞在者たちに伏せられていたので――ちなみにいえば、当局による情報隠蔽の動機として「公園に開かれたばかりの絵画展覧会へのおもわく」が挙げられているが、これはヴェネツィア・ビエンナーレのことだろう――ホテルの宿泊客は呑気に日々を過ごしていた。しかし、アッシェンバッハは、理髪店で耳にした噂話と、そこかしこに漂う消毒液の匂に不穏なものを感じ取り、不安の念に駆られる。ドイツ語を耳にする機会が急に減ったことに気づいていた彼は、ドイツの新聞を丹念に読み、だいたいの状況をつかむ。そこには他国の新聞には見られない疫病関連情報が不確定ながら見いだされた。その後、彼はイギリスの旅行社で疫病にかんする詳細な情報を得ることになる。

 

蔓延しつつある疫病の名はコレラ、20世紀初頭のことゆえその致死率は8割、「けいれんとかすれた悲鳴のうちに、ちっそくしてしまう」悲惨なケースと、 「軽い不快ののちに、ふかい失神の形」で死に至るしあわせなケースとがあると小説には書かれている。疫病について、あらいざらい話し終えた旅行社の職員は、アッシェンバッハに今日にでもヴェニスを立つことを勧めた。

 

だが、作家は、さながらストーカーのごとくタッジオの家族たちをつけまわして、石炭酸の匂がたちこめるヴェニスの街をさまよいつづける。さまよいながら、青物商で買った熟れ過ぎた苺を口にする。砂時計の砂が竭きる刹那のように、時が終焉にむけて渦を巻き始めていた。

 

数日後の朝、いつものようにアッシェンバッハが渚に出ようとロビーを通りかかると、宿泊客の荷物が積み上げられている。門衛に聞いて、それがタッジオの家族のものであることを彼は知る。別離の情がもたらす動揺を抑え、何気ないようすを装って渚へと向かうアッシェンバッハは、その朝、体調がおもわしくなかった。心身にわたる眩暈、強い不安の念をともなう眩暈の発作に襲われつづけていたのだ。それは「外界に関したものか、それとも彼自身の存在に関したものか」わからない変調であった。外界と内面のいずれに帰することもできない異常な体感が裂け目となって、彼を呑み込もうとしていたのである。

 

アッシェンバッハは秋の気配の漂いはじめた渚のデッキチェアに身をゆだね、友だちと戯れるタッジオの様子を見守っていたが、少年たちのあいだにちょっとしたいざこざがあって、タッジオは、ひとり浅瀬を越えて砂州を歩いてゆく。冒頭に引用したのは、その情景である。このときタッジオは、海辺の光景のなかでほとんど影像そのものと化している。三脚に取り付けられたまま渚に置き去られ、黒い冠布[かぶり]を風にはためかせている撮影者なき写真機は、タッジオの変容を換喩的に示している。砂浜と砂州の境を成す水域を越え、水域に亀裂をはしらせる砂州に歩みを進めながらタッジオは急速に影像と化していった。

 

 

実吉捷郎[さねよし はやお]の訳によってここに引いたくだりは、もっと滑らかな表現を与えることもできる。最近の例から引けば、たとえば岸美光は次のように訳している。

 

広い水の帯によって固い地面から隔てられ、誇り高い気まぐれによって仲間たちからも 隔てられ、少年は歩みを進めていた。あらゆるものから切り離された、なにものとも結びつかないその姿は、髪をなびかせて、あの遠い海の中に、風の中に、霧のような無限の前にいた。

 

圓子修平は、このような訳を与えている。

 

幅の広い水の帯で陸地から隔てられ、誇り高い気紛[まぐ]れから仲間の者とは離れ離れになり、ひどくかけ離れた、取りつきようのない姿で、少年は髪を風になびかせながら離れた海のなかを霞む無限のなかを、ぶらぶらと歩いて行く。

 

これらの訳の方が実吉捷郎の訳よりだんぜん分かりやすく、現代的センスを宿している。だが、この場面は実吉訳がふさわしい。川村二郎が岩波文庫の解説でいうように「原文の形をそのまま訳文に写し取っている」ような、いささかぎくしゃくした文の組み立てが、たとえてみれば、ブロックノイズが発生し、切れ切れにフリーズするDVDの一場面のような語の配置が、アッシェンバッハの末期の眼に映るタッジオを彷彿させるからだ。最後に、いまいちど実吉捷郎から、そのくだりを、マンの原文と共に引いておくことにしよう。

 

幅のひろい水によって大陸から隔てられ、尊大な気分によって僚友たちから隔てられたまま、彼は、極度に分離した、連絡のない姿となって、髪をひらめかせながら、ずっと向こうの海のなかを、風のなかを、霧のごとく無際限なものの前をそぞろ歩いていた。

 

Vom Festlande geschieden durch breite Wasser, geschieden von den Genossen durch stolze Laune, wandelte er, eine höchst abgesonderte und verbindungslose Erscheinung, mit flatterndem Haar dort draußen im Meere, im Winde, vorm Nebelhaft-Grenzenlosen.

 

「無際限なもの」とは海であり、アッシェンバッハにとってそれは、単純で、巨大で、永遠で、完全なものにほかならなかった。そして、それは完全なものの一形態としての虚無でもあった。完全にして虚無。影像とはそのようなものとして、わたしたちを訪れるのだ。

 

遠くを指さすようなタッジオの姿に「望みに満ちた巨大なもののなかへ」と消え去ってゆくらしい兆候を見てとったアッシェンバッハは、少年のあとを追おうとしてデッキチェアから立ちかけたところで絶命する。その瞬間を見届けたのはタッジオだった。アッシェンバッハの眼差しにおいて影像と化しつつある少年は、何かに突き動かされるように振り返り、椅子の背に頭をもたれかからせている小説家へと視線を向けたのだ。このとき、グスタアフ・アッシェンバッハは、彼を眼差す[、、、]タッジオにおいて影像と化した。

 

そこには、もはや形式もなく生もない。生と死の境を越えて切れ切れにゆらめく影像が見て取られるばかりだ。生とそれを律する形式とのあいだに揺らめく影像、その遊動Spielのリズムに、老作家は消え入るように同期してゆく。息絶えた老作家の顔には、きっと愉楽の面持ちがみとめられたのにちがいない。それは生の不快から解き放たれた安堵の表情でもあったろう。

 

タッジオの眼差しが捉えた小説家の最期をトーマス・マンは、こうしるしている。

 

このときその頭は、いわばその視線を迎えるように挙げられた。と思うと、がっくりと胸の上へたれた。

 

 

2020年10月20日
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