先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第30回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

ここでカモメを見たと思ったとき、私の頭はおかしくなかった。だからカモメを見たのではないことが分かった。/時々、物が燃える。私が自分で火をつけたときというだけの意味でなく、自然に火がつくことがある。だから、切れ切れの残骸が時に遠くまで飛んだり、 驚くほど高く舞い上がったりする。/いつしかそれにも慣れた。/でも、できることならぜひ、カモメを見たというのを信じたい。/ 実を言うと、私がこの海岸に来た大きな理由はたぶん、夕日が見たいと思ったからだ。/あるいは潮騒を聞くため。

 

――デイヴィッド・マークソン/木原善彦訳『ウィトゲンシュタインの愛人』(2020)

 

人間も含めて動物がすべて姿を消した地上に、ただ一人で生きている猫好きの女性の独白が延々とつづく。日々の出来事、あれこれの思い出、芸術にまつわるトリビアルな知識、思考、想像などを、彼女は淡々と意識の赴くままにタイプライターで書きとめてゆく。マークソンの小説は、このようにして紡ぎ出されてゆく。

 

彼女は画家で、名前はケイト、年齢は五十前後。かつてソーホーにアトリエを構え、ウィレム・デ・クーニングやロバート・ラウシェンバーグ、それから小説家のウィリアム・ギャディスらと交流があった。結婚して男の子をもうけたが、子どもは幼くして他界し、夫も飲酒が原因で死んでしまう。夫の死は、どうやら彼女の浮気が原因であったらしい。

 

ケイトは放置された自動車を駆って国境の消えた地上を経巡り、また、ときには船も操って、無人の美術館や古跡を訪ね歩く。途中、ルーブル美術館で《モナ・リザ》の額縁を燃やして暖を取ったり、メトロポリタン美術館の壁に自分の絵画作品を展示したりと好き勝手なことをしながら、ともあれ、いまはアメリカの海辺の家で暮らしている。カーオーディオの媒体がテープであることから1980年代以降、CDがテープに取って代わる90年代までのあいだに何かが起こったらしいと察せられる。

 

 

ここに書き記される事柄は、しばしば曖昧で、間違いもあり、のちになって繰り返し修正され訂正される。あるいは、訂正するつもりで却って誤ることもある。いずれにせよ、読者は、正確さを求めて繰り返される話題に幾度となくつきあわされ、そのたびに事柄を捉え直すことを強いられる。はじめに書き記した彼女のプロフィールも、そうした不安定なことばから得た不確定な情報にすぎない。ケイトという名前も末尾近くではヘレンに変わっている。本書のなかで幾度も言及されるトロイア戦争の発端に位置する稀代の〝浮気者〟ヘレネに由来する名前だ。

 

地上にただ一人で生きる者にとって名前など実質的にどうでもいいのだが、この変更が興味深いのは、彼女がホメロスの『オデュッセイア』を思い起こしつつ、ヘレネの従姉妹にあたるペネロペとオデュッセウス、そして彼らの息子のテレマコスの三人にみずからの家族をなぞらえようとしている節があるからだ。ここには、かつてジェイムズ・ジョイスが、オデュッセウスの英語名である「ユリシーズ」の名のもとに行った企ての木霊が感じられるのである。この小説は、現代文学の歴史と神話化された古代ギリシャの歴史のモアレとして成り立っているともいえるのだ。

 

そればかりではない。「私」という一人称が、タイプライターを打っている女性であると同時に、そこに言語として生成されてゆく女性であり、また、この二重化された女性を小説として成就するデイヴィッド・マークソンでもあるという事態に、読者は本書の終結部で否応なく気づかされる。しかも、小説を読みながら、訂正と修正とによって行きつ戻りつする読者としてのこの私も、幾筋かの記憶の繊維として「私」に混紡されているかのように思われもする。

 

 

ここに引いた一節も曖昧だ。このすぐ前のところで、彼女は、カモメに誘われてこの海岸に来たと書いているのだが、しかし、このくだりでは、ここに住みついたのは夕日と潮騒にさそわれたからだという。しかも、自分の眼にしたものがカモメでないことは分かっていると彼女はいう。何かの燃えかすが風に舞ったのだろうというわけだ。別のところでは、海岸で書物の頁を燃やし、それが風に舞う姿をカモメに見立てるシミュレーションを行ったと書いてもいる。

 

ちなみにいえば、この女性は書物を焼き、部屋に火を放ち、家屋を燃やし、また、惜しげもなく荷物を捨て去るのだが、その行動はポトラッチへの連想を誘い、ポトラッチをめぐってジャック・デリダがシカゴ大学で行った講義のタイトル「経済的理性の狂気 The Madness of Economic Reason」いうことばを思い起こさせる。この連想に従うならば、彼女は理性に宿る狂気を体現しているということができるかもしれない。

 

万事この調子で、修正と訂正の繰り返しによって事柄が宙づりにされたまま文章が進行してゆく。輪郭を捉え直す幾筋もの線が、亡霊のように残されたデッサンを見ているようだといってもよい。線の亡霊は事実探究の痕跡にほかならない。彼女が、事実と符合することばを求めていることは、ときおりことばの不正確さを嘆く独白が挟まれることに示されている。いくたびも鏡への言及が繰り返されるのも、このことと無縁ではないだろう。

 

 

彼女がカモメに関心を抱く動機のひとつに、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインへの関心がある。ウィトゲンシュタイは海鳥が好きで、アイルランドの海辺に暮らしていたときには、たくさんの鳥たちを餌づけして土地の人たちの語り草になったという逸話が伝えられている。彼女は哲学が得意ではないというけれど、ウィトゲンシュタインを読んだことがあり、ぜんぜん難解だとは思わなかったという。げんに、彼女はしばしば『論理哲学論考』冒頭のテーゼを口にする。「世界はそこで起こることのすべてだ」(The world is everything that is the case.)、と。

 

このウィトゲンシュタインのテーゼを踏まえて捉え返すならば、本書は、ひとりの画家がことばで「世界」を描き出そうとする企てとみることができる。事実の出来る限り正確な像を描き出すことで、その世界の構造を正確に捉え返そうとする試行である。ただし、描き出される事実には、思考や記憶、あるいは可能態としての幻影さえも含まれるし、事実と対応しない誤った記述もまた、記述というひとつの事実にほかならない。このようなに複雑に折りたたまれた事実を、「そこで起こること」として、彼女は次々と書き留めてゆく。

 

無人の都市や古跡をさまよっていた頃の彼女は「心から離れた[アウト・オブ・マインド]状態」だった。正気を失うか、もしくは記憶から消えた時間――Time out of mind.――を生きていたというわけだが、このように自らの外部に想定されていた世界は、彼女が「世界」の描写を進めてゆくあいだに、彼女自身を呑み込んでゆく。彼女は、みずからが描き出す「世界」に閉じ込められてゆく。「心から離れた[アウト・オブ・マインド]状態」にあった彼女は、心のなかに捕らわれた状態に、だんだんと陥ってゆく。彼女は独我論[ソリプシズム]症候群を呈しはじめる。ただし、その独我論的空間には、記憶と知覚にまつわるさまざまな声と像とがポリフォニックに交錯している。

 

☆ 

 

ウィトゲンシュタインに会っていれば「きっと彼のことが好きになっていただろう」と、彼女はいう。ウィトゲンシュタイが同性愛者であり、すくなくとも女性の愛人はいなかったことを彼女は知りつつ、そのようにいう。そして、「愛人」という言葉が時代遅れだとも彼女は書きしるす。「愛人」と訳されているmistressは「恋人」「女主人」とも訳されるが、はたしてWittgenstein’s Mistressというタイトルが、いかなる含意を有するのか。修正や訂正を繰り返し、たえず輪郭を変えてゆく本書の成り立ちからして、これを言い止めるのはむつかしい。

 

それでは、本書のモティヴェイションは、いったいどのようなものであるのだろうか。生きられた『論理哲学論考』というようにこの小説を捉える見方もあり、なるほどそのようにもいえるのだが、本書には、『哲学探究』によって代表されるウィトゲンシュタイン後期の思想の影も揺曳している。生の有りようと同じく予測不可能なゲームとして言語活動を捉え返し、ことばは、そのゲームにおいて――ときには真剣に、あるいは嬉々として行われる言語ゲームにおいて――意味を帯びるとする発想だ。

 

マークソンのモティヴェイションは、ケイトのモティヴェイションに対するメタの立場にありながら、その大部分をケイトと分有しているとみることができる。つまり、モティヴェイションにかんしてマークソンとケイトが互いに互いのゴーストであるような状態が想定されるのだが、もしそうだとすれば、本書のモティヴェイションは書くということにまつわる情動といえるのではないだろうか。すなわち、書くことと生きることを同期させる情動である。ケイトにとって書き記すことが――「この海岸に誰かが住んでいる」という末尾のことばが暗示するように――自身の存在の証であるのだとすれば、彼女の叙述に自己の小説を重ね合わせるマークソンにとっても、書くことは自己の存在の手ごたえを得る手段だったのではないかということだ。

 

だが、本書のモティヴェイションを示すには、本書にしるされた音楽をめぐる次のエピソードを引用すれば、それで事足りるのかもしれない。

 

かつて誰かがロベルト・シューマンに、今あなたが弾いていた曲の意味を説明してくださいと言ったことがある。/するとロベルト・シューマンはもう一度ピアノの前に座り、 同じ曲を弾いた。

 

 

このいささか長くなりすぎた小文の締めくくりとして、ついさっき引いたこの小説の末尾の一行を、デイヴィッド・マークソンがケイトと共にしるした遣る瀬なく切ないメッセージを原文から引いておくことにしよう。

 

Somebody is living on this beach.

 

*[ ]内は直前の語の振り仮名。スラッシュは原文改行。

 

 

 

 2020年9月23日改稿

2020年9月10日
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