女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭
口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いて居る。顔は下膨[しもぶくれ]の瓜実形[うりざねがた]で、豊かに落ち付きを見せてゐるに引き易[か]へて、額は狭苦しくも、こせ付いて、所謂富士額[ふじびたい]の俗臭を帯びて居る。のみならず眉は両方から逼[せま]つて、中間に数滴の薄荷[はつか]を点じたる如く、ぴくぴく焦慮[じれ]て居る。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しからう。
――夏目漱石「草枕」(1906)より
「草枕」のヒロイン那美の顔の描写である。描写しているのは、西洋画法を学んだ30代の旅の画家だ。画家は那美の父が所有する温泉地の屋敷に逗留している。ただし、画家といっても、この男は絵を描かない。彼はスケッチブックに俳句や漢詩をしばしば書き込むけれど、めったにスケッチはしない。これは、文芸と美術の別を厳しくいましめるモダニズムへの批判的スタンスの実践であるのだが、ここで那美の顔を言葉で描写してみせたのは、那美の顔が絵にならないということを示すためでもあった。
この一節に続けて「かやうに別れ別れの道具が皆一癖あつて、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだ」とある。統一感のない、いってみれば動的なコラージュのような面貌ということであり、画家は、それが内的な統一がないせいだと考える。「別れ別れの道具」のそれぞれを、背後の一点に引っ張るようにして、瓜実顔の輪郭のなかにきっちりとまとめ上げるものがないというのだ。つまり、絵にならない顔である。
では、顔に統一性を与える背後の一点とは、いったい何か。
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漱石は『文学論』で、文学を規定するのに「F+f」という式を掲げている。かんたんにいえば、文学のテキストには「認識的要素(F)」と「情緒的要素(f)」が、ともども備わっていなければならないということであり、これは絵画についても当てはまる。たとえば花を絵に描くとき、そこに何らかの情緒が寄り添うのは当然であるとして、図鑑のイラストとして描かれた花にとって、情緒は必須の条件ではない。「認識的要素(F)」が備わっていれば事足りる。
画家は、那美の顔つきに欠けているfを「憐れ」の情であると、やがて考えるに至るのだが、「憐れ」としてのfの欠落は実は画家自身が望むところでもあった。「非人情」であることを、芸術家としての――あるいは旅人としての――自己のスタンスと考えていたのである。「不人情」というのが情をかけるべき場面で情を発揮しない態度を指すのに対して「非人情」は、そもそも人情の外に立つことを意味する。そこに「憐れ」の情など望むべくもない。とすれば、那美の顔つきは、画家のそれでもありうる。人間の顔に統一性をもたらす内的な一点が「憐れ」の情であるのだとすれば、「非人情」の構えをとる画家自身の顔にも動的な不統一が認められるはずだからである。
画家が、宿泊地の床屋で、安物の鏡に映し出される自分の顔がさまざまに歪むのを目にする場面には、画家の顔の不統一性が示されている。画家は、右を向いたり、仰向いたり、前かがみになったり、左を向いたりして、みずから顔をさまざまに変形させるのだが、その歪みは鏡に由来している。
苟[いやしく]も此鏡に対する間は一人で色々な化物を兼勤しなくてはならぬ。
このようにして、鏡のなかの顔に動的な不統一性を画家は見いだす。目の当たりにした那美の顔に動的な不統一を見いだした画家の眼を、ここでは鏡が代替しているのだ。そして、そうだとすれば、那美の顔の不統一性は画家の眼に帰することもできるのにちがいない。引用した那美の描写と床屋の場面は対称を成しているのである。
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不統一性ゆえに那美の顔は絵にならないと考える画家に対して、那美は「わたくしの画をかいて下さいな」という。「顔」を描いてほしいとはいわない。あくまでも「わたくし」と彼女はいう。だが、画家は、あくまでも顔にこだわる。顔を人間個々の表象と考えているからだ。眼前に突き出される顔は内的な統一点との関係において、その人間を代表する――そういう人間観が画家にはある。西洋派の画家としていたってまっとうな発想だが、那美の面貌はそれを裏切る有りようを呈しており、描く方も、内的統一と顔貌との均衡を成り立ち難くする「非人情」のスタンスを願っているとあっては、顔が描けるはずもない。
結局、画家は絵筆を執って彼女の顔を描くことをせずに終わるのだが、小説の最後の場面で、那美の絵は「胸中の画面」として成就する。日露戦争の戦場に出征する那美の従弟と、満州へ渡る彼女の前夫を乗せた汽車を駅で見送る場面で、彼女に「憐れ」の情を画家が認めた刹那に内的イメージとして絵が成就するのである。画家は、汽車を見送る那美の肩を叩いて、「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」という。そのとき画家は彼女の顔を見てはいない。彼は「憐れ」の情を身体の発するオーラのようなものとして感じ取り、思わず彼女の肩に触れたのだ。画家が那美に触れるただ一度の場面である。
オーラとしての情緒。これは画家が密かに思い描く絵画の新たな可能性にかかわってもいた。再現性を踏み超えた「ムード」としての画面を彼は夢想し、遠慮がちながら「音楽の状態」(ウォルター・ペイター)に憧れを抱いていたのである。漱石がロンドンに留学したのはジェームズ・マクニール・ホイッスラーが《黒と金色のノクターン――落下する花火》(1875)を発表した二十数年後、色調によるムードを重んじるそうした画風が「トーナリズム」の名のもとにアメリカで注目を引いていた時代のことであった。
2020年10月6日