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TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第9回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペテロが、「先生、群集があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。

――新共同訳『聖書』「ルカによる福音書」8―40より

  

何年も出血が止まらない女性がいた。治療のために全財産を投げ出したが病は癒えなかった。奇跡を行うイエスの評判を聞いた女性は、群集に混じってイエスに近づくと、声もかけずに、そっとイエスの服に触れた。すると、ただちに出血が止まり、彼女は癒やされた。

  

治癒者としてのイエスの面影を、ありありと伝える説話だが、この説話の要点は、治癒そのものよりも、癒されることを求める者に対するイエスの感受性にある。救いを求めておずおずと差し出される手に対してイエスが示した感受性こそ、彼の存在理由にほかならない。それはまた、教師の資質として求められているところでもあるだろう。

  

イエスとペテロ。両者の感受性の異なりは、イエスとイエスの信徒たちとの決定的な裂け目を示している。信徒はイエスたり得ず、それゆえ信徒にとどまるほかない。しかし、イエスへの敬愛と憧憬なくしては、ペテロはペテロでさえありえなかったにちがいない。

  

教師にかんしても、また然り。イエスの感受性を求められながら、すべて教師は、ペテロの裔でしかありえない。それゆえ、教師たらんとする者は――もちろん自戒の念をこめて言うのだが――次のようにおのれを絶えず励まさなければならない。イエスへの――消失点としての善き理念への――接近の意志を措いてペテロはペテロたりえないのだ、と。

  

  

2017年5月29日
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