先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第5回

芸術表象専攻/芸術文化専攻 教授 北澤憲昭

  

サマルカンドへ行かなかったときのことを憶えているかい?(中略)ぼくはあの旅を、決して忘れることのできない想い出として、それもすごく鮮明で、すごく詳細で、まさに想像のなかで体験したことでなければ残せないようなものとして記憶しているよ。

――アントニオ・タブッキ/和田忠彦訳『いつも手遅れ』より

  

「行かなかった旅」は「書かなかった小説」と対を成す。タブッキは同じ小説のなかに、「空中にだけ存在して、軽く、羽が生えて、つかまえることができず、ちょうど思考のように、存在しないがゆえに自由だった言葉たち」を書き留めて可視化することが、どれほど辛いことかと書きつけている。

  

「行かなかった旅」の想い出は、吉本隆明が自他に投げかけた次のような問いを思い起こさせずにはおかない。「かれの〈書く〉ものは、かれにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか?そして、わたしの〈書く〉ものは、わたしにとって如何にして〈書かない〉ものの世界に拮抗する重量と契機を獲取しているか?」(「なぜ書くか」)。

  

タブッキの軽快でおしゃれな言葉は、吉本の重く無粋な言葉と確かに「拮抗」している。

  

  

2017年3月22日
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