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TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第11回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。 

――内村鑑三「後世への最大遺物」(1925)より

  

「遺物」はmemento、すなわち「形見」。 

  

高尚さと勇ましさは、相携えなければ価値を発揮しがたい。高尚さをともなわない勇ましさは、しばしば粗暴であり、勇ましさをともなわない高尚さは、しばしば単なる非情に陥る。

  

しかし、いまや「勇ましさ」と「高尚さ」は人生の美徳たりえない。それらは、ひとを世の中から浮き上がらせずにはおかないからだ。独善的な恨みと自省なき妬みに充ちたこの格差社会において、「勇ましさ」や「高尚さ」は憎悪の標的にされやすい。それを美徳とみなすのは自死を決意したテロリストくらいのものかもしれない。内村が称揚するような生き方は、時代から大きくズレてしまった。それは文字通り「遺物」と化したかにみえる。

  

とはいえ、「勇ましさ」とも「高尚さ」とも無縁な生き方を淡々と続けてゆくことこそ勇ましく高尚な人生であるということもできないではない。時代おくれの美徳を現代によみがえらせるには、逆説のとんぼ返りをやってみせる必要があるのだ。

  

阿久悠の歌詞ではないが、ねたまず、あせらず、目立たぬように、はしゃがぬように生きてゆくのは並大抵のことではない。そのためには、世の愚劣に取り巻かれながら、それに迎合することなく、自己を励まし自己を抑えて生きてゆかなければならない。いまや「勇ましい高尚なる生涯」は、いかにもそれらしい言動においてではなく、むしろ、黙して語らぬ背中にこそみとめられるはずのものなのだ。

  

  

2017年8月2日
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