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TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第10回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

この比[ころ]よりは、大方、せぬならでは、手立てあるまじ。麒麟[きりん]も老いては駑馬[どば]に劣ると申す事あり。さりながら、誠に得たらん能者[のうしや]ならば、物数[ものかず]はみなみな失せて、善悪見所は少しとも、花は残るべし。

――世阿弥『風姿花伝』(1400頃)より

 

「年来稽古条々」の「五十有餘」すなわち老年にかんするくだり。

 

現代語にすると、以下のようなことが述べられている。この年齢くらいからは、おおかた、何もしないというほかに手立てはあるまい。獣類の王者である麒麟も老いれば、足の遅い馬にも劣るということわざがある。とはいえ、ほんとうに芸を身につけた役者ならば、とりたてて数え上げるような演技が全く見られず、よきにつけあしきにつけ目を引くところが少なくなってしまっても、花だけは残るだろう。

 

世阿弥の父観阿弥は数えの52才で亡くなったが、死の直前に駿河の浅間神社[せんげんじんじゃ]に能を奉納した。世阿弥はそれについてこう書いている。「能は、枝葉も少なく、老木[おいき]になるまで、花は散らで残りしなり」、と。

 

ひるがえって美術の現在に眼を移すと、たとえば現実への介入を目指すいわゆる「アート・アクティヴィズム」や「記憶アート」のなかには、ひたすら「実」を追い求める発想が、しばしば見てとられる。そこにおいて「花」は飾りにすぎない。「花」と「実」が分離されている。しかし、「実」は――「無花果[いちじく]」と称されるケースにおいてさえ――「花」無くして結ばれはしない。だから「花」とは別に「実」を追い求めるとすれば、それは愚の骨頂というほかない。

 

かつてポール・ヴァレリーはこうしるした。内容と呼ばれているものは不完全な形式にすぎないのだ、と。「実」とは「花」のひとつのすがたであるべきなのだ。

 

 

2017年7月3日
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