先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第28回

 
女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

   

とてもうつくしい曲ですね。だれが書いたのですか?

――ジョゼフ=モーリス・ラヴェル

  

このことばは、最晩年のラヴェルが、自分自身の代表作のひとつ「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いたときの発言。その頃、ラヴェルは記憶と言語の障碍に悩まされ、ついには署名すらままならない状態に陥っていた。

  

ラヴェル最晩年のこうした容態に照らしていえば、 「とてもうつくしい曲ですね」というのは、掛け値なしの自己評価とみることもできないではないものの、そのときラヴェルはラヴェル自身であったと言い切れるかどうか。むしろ、この発言は、自己意識を超える芸術家の感性――お望みならば「たましい」といってもいい――へと思いを誘わずにはいない。

  

作者の名前と切り離されてはじめて、楽曲は、ほんとうの音楽になる。ラヴェルがパリ音楽院在学中にピアノ曲として作曲された「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、ほかならぬラヴェルにおいて、作者の名前と切り離され、「音楽」そのものとして鳴り響いたのではなかったろうか。そういえば、作曲後十数年経ったところで、彼はこの自作について、 批評家に委ねることのできる距離が既に自分とあいだにできていると述べていた。

  

黒い皮表紙の古い手帖に書き留めてあったことばを、そのまま引いた。出典は不明。

  

  

2020年4月9日
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