先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第23回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

ウィトゲンシュタインは、哲学の古典を組織的に読んだことがなかった。かれは、自分が心から同調できるものしか読むことができなかった。(中略)スピノザ、ヒューム、およびカントについては、ときどき断片的に理解することしかできなかった、とかれは述べている。

――ゲオルク・ヘンリク・フォン・ウリクト/藤本隆志訳「ウィトゲンシュタイン小伝」(1955)

  

西田幾多郎の蔵書には揃っていない全集のたぐい、いわゆる端本が見いだされたという。若年の頃、全集を端から端まで読むことの重要さを教えられ、それなりに意義を認めて、全集読解を心がけてきた者にとって、この逸話はいささか痛い。全集読破は著者の全体を捉え、組織的に理解することに役立つのだが、思うに西田は、そういうことよりも自己にとって必要なものを得るための読書を重視していたのだ。このような構えのまえで、全集読破というのは、いかにもスノビッシュに思われてくる。ましてや、Twitterによる断片的思考の可能性が――鈍感と軽薄の罪をともないながらも――切り拓かれつつあるいま、そうした思いは、いやがうえにも強まらずにはいない。

  

とはいえ断片的思考の力は、Twitterを待ってはじめて発揮されるようになったというわけではない。それは、ソクラテス以前の古代ギリシャの思索家たちの書き残したものにおいて、ひさしいあいだ光輝を放ちつづけてきた。短い命題が連鎖してゆくウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』も――けっして非組織的ではないのだけれど――個々の命題を気ままに拾い読みすることができる。つまり、断片性を享受することができる。断片化したことばのもたらす愉しみは、オブジェのような実在感と、そこにさまざまな文脈を接続できる自由度の高さとにある。

  

ここに引いた「ウィトゲンシュタイン小伝」の著者は、チャールズ・サンダース・パース研究で知られるフィンランドの科学哲学者である。1949年に前立腺癌の診断を受けたウィトゲンシュタインの後任としてケンブリッジ大学に招かれ、1951年にウィトゲンシュタインが没するまで教壇に立った。

  

ちなみに、ウィトゲンシュタインの最期のことばは“Tell them I’ve had a wonderful life.(素晴らしい人生だったと彼らに伝えてください)”だったという。親しい友人たちへの伝言だった。臨終のウィトゲンシュタインは“ a wonderful life”の内実を語ってはいないが、もちろん、それでじゅうぶんだった。末期のことばは、断片たらざるをない。そして、断片的であるがゆえに、その煌めきがひとの心を打つ。

  

  

2019年8月29日
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