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摘読録――My favorite words 第21回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

       

形よりして言えば、則ち身は心を裹[つつ]み、心は身の内に在り。道よりして観れば、則ち心は身を裹[つつ]み、身は心の内に在り。

――大塩平八郎『洗心洞箚記』

   

大塩平八郎の主著の一節である。書名にみえる「洗心洞[せんしんどう]」は、大塩が自邸に設けた私塾の名、「箚記[さっき]」は読書記録というほどの意味だ。

   

「形」は身体の意味をもち、「道」は、「道義」「道理」などの熟語にみられるように、中国思想史では法則、規範などの意味を帯びる。これらを踏まえて上の文を読むならば、次のように解することができる。身体という観点からいえば身が心を包み込んでおり、心は身の内にある。道という観点に立てば心が身を包んでおり、身は心の内にある、と。

  

卑近な例で説明すれば、大塩が指摘する身と心の関係は、PCとインターネットの関係になぞらえることができる。PCのハードウェアを身体とすれば、その身体において行われるさまざまなジョブの大もとにOS があり、そのうえにいくつものアプリケーションが配置され、アプリケーションを介して大量のデータが蒐集され、記録され、編集され、それらにもとづく知的営為が展開される。すなわち、「心は身の内に在り」である。

  

ただし、PCはインターネットと接続されるのを常とするから、ジョブは、PCの外部と繋がり、遥か彼方まで拡がっている。また、サーバーやメモリーなどの機能をインターネット経由で取得するクラウドも活用されている。そうした広がりのなかにPCはある。すなわち、「身は心の内に在り」である。コンピュータによる作業はすべてOSに帰せられるという点を踏まえてネットの拡がりを思うならば、引用部分の少し前にしるされているように「身外の虚は、即ち吾が心の本体なり」ということにもなるだろう。

  

以上を要約するには、王陽明[おうようめい]の言行を伝える『伝習録』の次のことばがぴったりくる。「心無ければ則[すなわち]ち身無く、身無ければ則ち心無し」。大塩平八郎は大坂町奉行に属する優秀な与力であったが、陽明学者として広く知られていた。

  

大塩は若くして隠居したのち、天保の大飢饉に際して幕府の無策と特権的豪商のエゴイズムに義憤を発して兵を挙げ、倒幕運動の遠い陣痛として後世に名を残すことになる。いわゆる「大塩平八郎の乱」であるが、これは認識と実践の連動を重んじる陽明学の思想に根差す行動であった。

  

失敗に終わった挙兵は過激かつ無謀であり、森鷗外は、「平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である」としながらも、けっきょくのところ「米屋こはしの雄」に過ぎないとして、大塩平八郎の思想からは「頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつた」と評したが(『大塩平八郎』)、三島由紀夫は、プラグマティクな観点からは評価しがたい大塩の行動に「能動的ニヒリズムとしての陽明学」を見い出して賛辞を送っている(『行動学入門』)。

  

大塩は、非常に短気なひとであったようだから、ニヒリスティクとも見えるその成算なき行動は、性格と思想の相乗作用であったとみることもできそうだ。

  

  

2019年5月28日
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