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摘読録――My favorite words 第22回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に対峙していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。

――加藤周一「言葉と戦車」(1969)

  

1956年2月25日、ソヴィエト連邦共産党第20回大会において共産党第1書記ニキータ・フルシチョフがスターリン体制の実態報告をおこない、粛清や暴政のすさまじさがあきらかにされた。報告は、諸外国の共産党や労働者党を排した秘密会議で行われたのだが、その内容は滲み出るようにして外部に拡がるところとなり、その結果、ソヴィエトが掌握していた国際コミュニズム運動の求心力は低下してゆくことになる。東欧圏では、共産党支配に対抗して民主化を求める運動が展開され、その一環として「プラハの春」と呼ばれる事件が起こった。

  

1968年春に開かれたチェコ-スロヴァキアの共産党中央委員会総会で採択された「行動綱領」には一党独裁体制の是正、市場経済の部分的導入、表現の自由などの項目が盛り込まれ、市民は「二千語宣言」を以てこれに賛意を表明した。パリで「五月革命」の昂揚があり、日本では全共闘運動が最後の光芒を放った年のことだ。

  

ソヴィエトは、こうした民主化の動きを「反革命」の徴候とみなし、これを弾圧するべくワルシャワ条約機構軍をチェコ‐スロヴァキアに侵攻させた。8月20日23時のことである。チェコ‐スロヴァキア全土を制圧した侵攻軍は、国際通話や外信用テレックスなどの国外向けの公的通信手段を封鎖し、情報統制を布いたが、プラハで起こっていることは、アマチュア無線を通じて、またたくまに世界の知るところとなった。

  

当時、音楽祭開催を控えたザルツブルクに滞在していた加藤周一は、8月21日の朝、食事のために訪れたレストランでチェコが非常事態にあることを知る。彼は、音楽祭をキャンセルし、情報収集に有利な首都ウイーンへと急行する。このときの経験に基づいて書かれたのが「言葉と戦車」にほかならない。

  

上に引いたくだりに先立って、加藤は、次のように記している。「言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することはできない。戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することもできる。しかしプラハ街頭における戦車の存在そのものを正当化することはできないだろう。自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対するには言葉をもってしなければならない」、と。このくだりを読むとき、決まってジョセフ・クーデルカが残した、戦車の兵士を説得しようと必死に語りかける市民たちのすがたが想い浮かぶ。

  

引用部分に続けて加藤は「その場で勝負のつくはずはなかった」としるしているが、加藤のいうとおり「勝負」は先にもちこされた。軍事力によって鎮圧されたものの、民主化の動きは決して終わることはなく、いったん伏流と化してプラハの精神的な通奏低音と化し、21年後の「ビロード革命」においてモルダウのように大きな流れとなって高らかに響き渡ることになる。

                                  

  

2019年7月20日
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