先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第19回

 

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

芸術家はよくきわめて非実際家だと言われ、またたいていそう感じられている。彼らはいつも食事に遅刻する、手紙を出すことを忘れ、借りた本やまたは借りた金さえ返すことを忘れる。

――ジェーン・E・ハリソン/佐々木理訳『古代芸術と祭式』より

  

説明するまでもないだろう。芸術家自身はもちろん、家族や友人に芸術家をもつ者なら誰しも覚えがあるはずだ。オスカー・ワイルドは批評家も芸術家のうちに数えたが、自分のことを棚に上げるために、とりあえず、このことは括弧に入れておくことにしよう。

  

引用した文のなかにみえる「非実際家」とは、プラクティカルな社会生活になじまないという意味である。つまり、芸術家は実生活に疎いということだ。このくだりの少しあとで、ハリソンは「非実際的」ということを、「芸術は直接行動と縁の切れたものだ」といいかえている。

  

たとえば、ほどよく熟した桜桃が目の前にあるとする。これを食べて満足するならば、それによって、生命維持にかかわる正常な行為のサイクルが完結する。その行為は、実生活の一齣として収まりがつく。ただし、そのひとは芸術家ではない、とハリソンはいう。もし、そのひとが画家ならば、桜桃を食べることなく、そのヴィジョンを――純化されたエモーションを――描くはずだ。つまり、芸術家の行為は生命維持のサイクルを完結させない。ハリソンは、こんなふうに説明している。

  

とりたてるまでもない、ありきたりの芸術観だが、そこから冒頭のことばが引き出されたのはおもしろい。ハリソンも、芸術家の行動に困惑した経験が、きっとあったのにちがいないからだ。

  

ところで、ハリソンは、名著の誉れ高いこの本で、主に演劇を念頭におきながら、芸術の根源の彼方に、生命的なエモーショにまつわる古代の儀礼を想定している。そして、儀礼から芸術が派生するのは、儀礼の共同性から「見物人」が分離したときだと指摘する。つまり、儀礼に参加する者と、それを見る者が分離し、対置されるところに芸術が生まれるという。儀礼の執行が演技として眺められるようになってゆくというわけである。

  

だが、その一方でハリソンは、先に引いた桜桃の譬えのくだりで、生命的なエモーションにまつわる場面の外に立つことで、つまり、「見物人」になることで、ひとは画家になると述べている。そうであるとすれば、画家は、古代の儀礼の記憶を引き継ぐ演者ではなく、その演技を見る者だということになる。ハリソンは彫刻についても、パルテノン神殿のフリーズと《ベルヴェデーレのアポロン》を例に同様の指摘をしている、「超然と見物者[スペクテータ]のごとくまた幽霊[スペクター]さながらに」という謎めいたことばを締めくくりとして。

  

画家と彫刻家は、古代の儀礼に加わる人びとのなかからではなく、それを見る人びとのなかから登場したというこの指摘は、じつに興味ぶかい。芸術の起源にかんするいまひとつの見方を暗示しているからだ。「見ること」と「行うこと」が作り出すメビウスの環。これは、冒頭で棚にあげたワイルドの見解、すなわち批評家を芸術家とみなす見方に、ひとつの根拠を与えているということができるだろう。

  

  

2019年3月8日
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