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摘読録――My favorite words 第20回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

――清少納言『枕草子』より

  

いまの京都に、千年前と同じ空などありはしない。清少納言が目にした「あけぼの」の空を眺めることは、もう誰にもできない。他の都市と同じく京都の空気は、酸化硫黄,二酸化窒素,一酸化炭素,粒子状物質、光化学オキシダントなどによって汚染されている。しかも、内陸盆地にある京都では大気が滞留しやすい。そればかりか、大気汚染は、冬にピークに達する。その冬があけての春である。いまの京は、むかしの京にあらず。いにしえの京のあけぼのは、ことばのなかに息づいているばかりだ。

  

『岩波古語辞典』によると、あけぼのは、あかつきの次にやってくる。「あかつき」は夜の終わりで、朝のまだ暗い段階を指す。一夜を共にした女性のもとから男が帰ってゆく刻限だ。そこここに闇がひそむ空間が、やがて、空の方から、だんだんとほのかに白んでくると「あけぼの」と呼ばれる時分となる。

  

こうして夜の終わりから朝の始まりへと時がスウィッチされる。あるいは、リセットされる。つまり、無垢な時間のおとずれである。イェーツが「夜明けのように無知でありたい」と歌ったとき、彼は、こうした「あけぼの」のすがすがしい無垢の光を――もしかしたらミネルヴァの梟との対比において――感じていたのにちがいない。

 

ところで、引用した文の読点は一例にすぎない。「やうやう白くなりゆく山ぎは」で読点を施し、「少し明りて紫だちたる」で区切ることもできる。だが、「やうやう白くなりゆく」で区切った方が「あけぼの」のイメージが彷彿するように思われる。だんだんと白い光が空から地上へと降りてきて、あたりに瀰漫してゆく感覚があるからだ。

  

この文章は「たなびきたる」と連体形で終わっている。ほんらいなら「たなびきたり」とするべきところだが、それではたんなる情景描写になってしまう。一事例になってしまう。連体形で文を結ぶのは強調のレトリックであり、また、この場合は、そうすることによって事例が典型へと切り替えられている。

  

末尾の連体形は、「春はあけぼの」という冒頭の体言止めと対応していると考えることもできる。もし、そうだとすれば、「紫だちたる雲の細くたなびきたる」という連体形を「あけぼの」に接合して読むのも一興だ。これによって京の「あけぼの」が大気汚染を逃れて、ことばの円環のなかで、きよらかな光を放ち始めるからである。

  

大庭みな子は、このくだりに「春はなんといっても明け方。だんだん白んでくる山際が少し明るくなって、紫がかった雲がほそくたなびいているさま」という現代語を対応させた。同じくだりに、メレディス・マッキニーは次のような英語を与えている。In spring, the dawn - when the slowly paling mountain rim is tinged with red, and wisps of faintly crimson-purple cloud float in the sky.

  

  

 

2019年4月2日

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摘読録――My favorite words 第19回

 

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

芸術家はよくきわめて非実際家だと言われ、またたいていそう感じられている。彼らはいつも食事に遅刻する、手紙を出すことを忘れ、借りた本やまたは借りた金さえ返すことを忘れる。

――ジェーン・E・ハリソン/佐々木理訳『古代芸術と祭式』より

  

説明するまでもないだろう。芸術家自身はもちろん、家族や友人に芸術家をもつ者なら誰しも覚えがあるはずだ。オスカー・ワイルドは批評家も芸術家のうちに数えたが、自分のことを棚に上げるために、とりあえず、このことは括弧に入れておくことにしよう。

  

引用した文のなかにみえる「非実際家」とは、プラクティカルな社会生活になじまないという意味である。つまり、芸術家は実生活に疎いということだ。このくだりの少しあとで、ハリソンは「非実際的」ということを、「芸術は直接行動と縁の切れたものだ」といいかえている。

  

たとえば、ほどよく熟した桜桃が目の前にあるとする。これを食べて満足するならば、それによって、生命維持にかかわる正常な行為のサイクルが完結する。その行為は、実生活の一齣として収まりがつく。ただし、そのひとは芸術家ではない、とハリソンはいう。もし、そのひとが画家ならば、桜桃を食べることなく、そのヴィジョンを――純化されたエモーションを――描くはずだ。つまり、芸術家の行為は生命維持のサイクルを完結させない。ハリソンは、こんなふうに説明している。

  

とりたてるまでもない、ありきたりの芸術観だが、そこから冒頭のことばが引き出されたのはおもしろい。ハリソンも、芸術家の行動に困惑した経験が、きっとあったのにちがいないからだ。

  

ところで、ハリソンは、名著の誉れ高いこの本で、主に演劇を念頭におきながら、芸術の根源の彼方に、生命的なエモーショにまつわる古代の儀礼を想定している。そして、儀礼から芸術が派生するのは、儀礼の共同性から「見物人」が分離したときだと指摘する。つまり、儀礼に参加する者と、それを見る者が分離し、対置されるところに芸術が生まれるという。儀礼の執行が演技として眺められるようになってゆくというわけである。

  

だが、その一方でハリソンは、先に引いた桜桃の譬えのくだりで、生命的なエモーションにまつわる場面の外に立つことで、つまり、「見物人」になることで、ひとは画家になると述べている。そうであるとすれば、画家は、古代の儀礼の記憶を引き継ぐ演者ではなく、その演技を見る者だということになる。ハリソンは彫刻についても、パルテノン神殿のフリーズと《ベルヴェデーレのアポロン》を例に同様の指摘をしている、「超然と見物者[スペクテータ]のごとくまた幽霊[スペクター]さながらに」という謎めいたことばを締めくくりとして。

  

画家と彫刻家は、古代の儀礼に加わる人びとのなかからではなく、それを見る人びとのなかから登場したというこの指摘は、じつに興味ぶかい。芸術の起源にかんするいまひとつの見方を暗示しているからだ。「見ること」と「行うこと」が作り出すメビウスの環。これは、冒頭で棚にあげたワイルドの見解、すなわち批評家を芸術家とみなす見方に、ひとつの根拠を与えているということができるだろう。

  

  

2019年3月8日

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摘読録――My favorite words 第18回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

日時計の面では一日のすべての数が同時に、/すべて同じに真実に、深い平衡を保って、/あたかもすべての時間が豊かにみのっているかのよう。

――ライナー・マリア・リルケ/高安国世訳「日時計の天使」より

  

古代ギリシャには、「時」を意味する言葉がふたつあった。クロノスKhronosとカイロスKairosだ。現代の日本語でいいかえれば、クロノスは流れ去る「時間」を、カイロスは「時刻」を意味する。

  

時刻というのは、時間のなかのある一点だから、そこでは時間の流れが止まっている。「いま、ここ」といいかえてもいいし、「チャンス」と呼んでもいい。

  

時の流れが止み、この一瞬にすべてが――過去も未来もそのすべてが――収斂する。そのとき、ぼくらは、時間に支配されるこの世界の出口にいる。だから、それを「死」と呼ぶこともできる。素晴らしい芸術作品に接したときにも同様の体験をすることがある。ひとは時間を忘れ果てて、そこにたたずむ。

  

その一刻一刻を、リルケは日時計の文字盤に見出したのだ。

  

  

2019年2月8日

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摘読録――My favorite words 第17回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

自由などほしくありません。出口さえあればいいのです。

――フランツ・カフカ/池内紀訳「ある学会報告」(1917)

 

学会における講演の記録を、そのまま短編として成り立たせるという趣向の作品だ。講演者は、アフリカの黄金海岸で捕獲された猿。彼は、捕まったあと檻に入れられてハンブルクに搬送されることになるのだが、その船旅の途中で人間のことばを身につける。それが檻の「出口」にほかならないと考えたからだ。

 

船員に向かって「よう、兄弟!」と呼びかけたのが第一声だった。ハンブルクに着くと彼は調教師にあずけられ、さまざまな教育を授けられる。そして、「ヨーロッパの人間の平均的教養」を身につけた猿は見世物小屋の人気者となり、学会の講演会に招かれるまでになるのである。

 

猿は、冒頭の言葉に先立ってこう述べる。

 

ついでにひとこと申しておきましょう。人間はあまりにしばしば自由に幻惑されてはいないでしょうか。自由をめぐる幻想があるからには、幻想に対する錯覚もまたおびただしい。

 

引用したことばは、逃走線さえ確保できれば、それでいいという意味だが、しかし、猿の発言に反して、逃走は「自由」にかかわっている。しかも、「消極的自由(liberty from)」と「積極的自由(liberty to)」とにかかわっている。このことを「出口」という語の両義性が指し示している。外部への出口は、内部からの出口でもあるからだ。

 

猿は「ハーゲンベック商会」の猛獣狩りで捉えられたことになっているが、ハーゲンベックは実在の人物で、サモア人とサーミ人の〝展覧〟を行ったのち、動物園をハンブルクに開園した。

 

 

2018年11月15日

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摘読録――My favorite words 第16回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

歴史とは、ぼくが、そこから目覚めようとしている悪夢なんです。

――ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(1922)より

  

原文は“History, Stephen said, is a nightmare from which I am trying to awake.”主人公スティーヴン・ディーダラスは『若き芸術家の肖像』の主人公でもあり、ジョイス自身がモデルとなっている。『ユリシーズ』で、スティーヴンは私立学校の歴史教師をしている。ここに引いたことばは、その学校の校長との会話のなかにあらわれる。

  

ジョイスは出身地アイルランドの歴史にたいする重苦しい思いから、このことばをしるしたものと考えられるが、言語もまた歴史的存在であることを思うならば、人間の精神は、その成り立ちから「悪夢」に取り憑かれているというほかない。『ドイツ・イデオロギー』から引く。

  

「精神」はそもそもの初めから物質に「取り憑かれて」いるという呪いを負っており、ここでは物質は運動する空気層、音、要するに言語という形で表れる。言語は意識と同い年である。(廣松渉編訳・小林昌人補訳)  

音楽や美術に携わるひとびとは、しばしば、言語の外なる世界を求める。しかし、それを求めさせるのは、言語とともに歴史を背負い込んできた精神にほかならない。言語の外部もまた言語的かつ歴史的に規定されている。もちろん、言語の裂け目は至る所に見い出されるものの、その裂け目も人間にまつわるものである以上、言語に属していることに変わりはない。

  

「悪夢」から覚めるためには死の時をまつほかない。出口はこの身体。そのチャンスは、ただの一度だけだ。

  

  

2018年9月25日

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デザインの得意な女子美生はよい宇宙飛行士になれる?

アート・デザイン表現学科 非常勤講師

山嵜一也

 

 

◆推薦図書
『ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験』(光文社新書)
大鐘 良一 (著), 小原 健右 (著)

 

 

 なぜ、女子美生に宇宙飛行士にまつわる本を薦めるのか?そのなぞを解き明かすべく内容を紹介していきたい。

 

 この本は宇宙飛行士選抜試験、最終選考過程を追ったドキュメンタリーである。2008年にJAXA(ジャクサ。独立行政法人・日本宇宙航空研究開発機構)によって発表された宇宙飛行士募集・選抜は日本では実に10年振りのことであった。

 

 それ以前、選抜試験に取材を受け入れたことはなく、執筆陣であるNHK取材班の粘り強い交渉の上に実現し、この本が誕生したのだ。

 

 宇宙飛行士に応募した963人のうち、最終試験に残った10人の候補者の紹介からこの本は始まる。2009年1月に始まった最終選考に残った候補者は、飛行士や医師など様々な専門性のバックグラウンドを持った働き盛りの20~30代である。最終選考期間は2週間。国内のJAXAで9日間、アメリカのNASAで7日間におよぶハードな試験に挑む。

 

 審査は、筑波宇宙センター内に国際宇宙ステーションを再現した「閉鎖環境施設」から始まり、全ての行動をカメラで監視される。時にはグラスを片手にしたレセプションパーティーの一挙手一投足までもが対象となる。すなわち、審査には取り繕うことの出来ない素の自分で臨まなければならない。人間性こそが宇宙飛行士になることへの大切な素養であることを読者に伝える。

 

 この本を読むまで、私は宇宙飛行士とは知力と体力が備わった完璧な人、スーパーマンというイメージだったが、彼らに求められる大切な能力はコミュニケーションや人間性であることを知った。国際宇宙ステーションという、壁一枚のその先には空気のない、死と隣り合わせの閉鎖空間で共同生活を行うので、各人の専門的な能力はもちろんのこと、チーム内におけるリーダー型やフォロワー型など、その貢献度までもが重要な審査対象となる。

 

 私はこのドキュメンタリーを読みながら、担当するアート・デザイン表現学科のグループワーク授業を思い出した。毎年4月に2年生になったばかりのアート・デザイン表現学科の全領域(メディア、ヒーリング、ファッションテキスタイル、アートプロデュース)の学生がグループを作り、杉並区とコラボレーションする授業。それまでの人生で各自がコツコツ絵を描いたり、作品を制作していたのに、いきなりグループワークという未知の世界に放り出される授業。それゆえ、毎年多くの学生が他者とのコミュニケーションを必要とする制作環境に苦労する。それは、きれいな絵が描ける、グラフィックソフトを扱える、プログラミングを組める、とは違った能力を試される授業である。

 

 実際、宇宙飛行士選抜試験にも、最終選考に残った10人を2つのグループに分け、ロボットを制作するという課題が審査される。国際宇宙ステーションで暮らす宇宙飛行士の“心を癒す”ロボットを制作する課題。センサー、モーターなどを含むブロックは小型コンピューターにケーブルでつながり、パソコンソフトからプログラミングを書き込むことが出来る。

 

 12時間という限られた時間でのグループワーク。順調に作業が進むと思いきや、中間発表で審査員から厳しいダメ出しを受ける。これは、あえて受験者に負荷をかけ、そのパニック状態をどう切り抜けるかをみるためのものだ。宇宙空間という限られた空間や資源の中で緊急事態への対応力を審査する。

 

 残り少ない時間の中、最終プレゼンテーションに向けて受験者たちは悩む。未完成の危険はあるものの審査員を要求にこたえるべく、粘るか?もしくはとにかく完成を優先させ、妥協点を見つけるか?リーダーとメンバーが一緒になって方向性を決めていく。このロボットで表現したいコンセプトは?作業の優先順位は?限られた時間の中で決断していく。

 

 ちなみに、女子美客員教授であり宇宙飛行士の先輩である山崎直子先生もこの本に登場する。憧れの人を前にした子供のような振る舞いの受験者の様子が描かれる。しかし、憧れだけで宇宙飛行士にはなれない。生命の危機にさらされる確率も高い職業としてはもちろんのこと、宇宙飛行士として選ばれたとしても宇宙飛行を体験せずに引退する人も少なくない。飛ぶまでに相当な時間を待たなければならない。「宇宙飛行士は待つのが仕事だ」とも言われるそうだ。宇宙飛行士という職業に対する覚悟が一貫して描かれているのもこの本のテーマである。宇宙飛行士選抜試験というのは、JAXAへの転職採用試験であり、宇宙飛行士への就職活動でもあるのだ。

 

 なぜ、女子美生に宇宙飛行士にまつわる本を薦めるのか?それは宇宙飛行士になることと、デザインを生み出すことには実は共通点が多いと感じたからだ。この本は宇宙飛行士選抜試験のドキュメンタリーでありながら、デザイン、ものづくり、クリエイティブ環境で生きていく女子美生にも参考なる話が満載である。そして、美術大学から社会に飛び立ち、働くとは何かを考えるときにヒントとなる一冊と言える。

 

 

2018年7月30日

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摘読録――My favorite words 第15回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

いまは、おまえが持っていないもののことなんか考えてるときじゃない。ここにあるもので出来ることを考えろ。

――アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』(1952)

  

『老人と海』の一節だ。悪戦苦闘の果てに釣り上げた巨大なマカジキを、老人は舷側にくくりつけ、港へと引き返す。しかし、しばらく行ったところで、獲物の血を嗅ぎつけた鮫が襲いかかってくる。老人はナイフで必死に応戦し、ようやく一匹を仕留めるが、次の鮫が攻撃してくるのは目にみえていた。ナイフの血をぬぐったあと、彼は、砥石を持ってくればよかったと思う。そして、次のように自分に言い聞かせる。“Now is no time to think of what you do not have. Think of what you can do with that there is. ”

  

いうまでもないことながら、ひとは、与えられた条件のもとでしか行動できない。条件は常に有限である。しかし、その活用法は限界をもたない。すべては知恵しだいだ。嘆いている暇はない。きっと、なんとかなる。きっと、なんとかしてみせる。

  

ここに引いたのは、締め切りを前に、たじろぐ自分に言い聞かせる、とっておきの言葉だ。

  

  

2018年6月27日

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摘読録――My favorite words 第14回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

ところで、この制度語彙は本書においては広い意味を託されている。法とか政治とか宗教とかいった古典的な制度のみか、技術や生活様式、社会関係、言葉と思想の変遷などに示されるより潜在的な制度も含めるのだ。われわれの研究目的がこうして関連する語彙の生成を過不足なく明らかにしようとするところにある以上、制度語彙とはまさに汲めども尽きぬテーマと言えるだろう。

――エミール・バンヴェニスト/前田耕作監修、鶴岡真弓ほか訳『インド=ヨーロッパ制度語彙集』「序文」より(1969)

  

よく知られているように、1990年代は、日本美術史研究が「制度」論を梃に、みずからを大きく転換させた時代だった。しかし、その起源に、このバンヴェニストの大著があることを知るひとは少ない。上記は、まさにその起源に位置することばである。

  

ロラン・バルトは「なぜ私はバンヴェニストが好きか」というエッセイで、この碩学に次のようなオマージュを捧げている。「バンヴェニストは、たえずことばの問題に身を浸しながら、ことばとは無関係だとかことば以前の問題だなどと考えてしまいがちなことすべてを拾いあつめる、というこの決定的なレヴェルでつねにことばをとらえていた。まさにそこに彼の成功があるのだ」(松枝至訳)、と。

  

1990年代に、美術をめぐる制度について調べ考えたことを発表し始めたころ、そんなことは美術史でもなんでもないと、よく言われた。こちらとしては「美術史」かどうかなど、どうでもよいことだったので聞き流していた。自分の関心は、美術史がそのうえに成り立っている「美術」というジャンルの形成過程をあきらかにすることだったから、そもそも、自分の研究が美術史であろうはずがなかった。

  

美術と無関係だとか、美術以前の問題だなどと考えてしまいがちなことを拾い集めることで「美術」ジャンルの成り立ちを――歴史と構造を――見極めるというこの「決定的なレヴェル」、いいかえれば美術と非美術の境界こそ制度史が展開すべき場所なのだ。

  

  

2020年9月29日改稿

2017年12月4日

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摘読録――My favorite words 第13回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

人間は 、事物を結合する存在であり 、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり 、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ 。

――ゲオルク・ジンメル/鈴木直訳「橋と扉」(1909)

  

「分離することなしには結合することのできない存在」というのは、人間が、世界を言葉によって――たとえばリンゴは「リンゴ」、キャベツは「キャベツ」、ナシは「ナシ」というように――あらかじめ分節して捉えているということを念頭におくと分かりやすい。

  

ここに引いた言葉の前の方に、ジンメルは、次のように書いている。「自然の事物があるがままに存在しているなかから、私たちがある二つのものを取り出し、それらを「たがいに分離した」ものと見なすとしよう。じつは、そのとき、すでに私たちは両者を意識のなかで結びつけ、両者のあいだに介在しているものから両者をともに浮き立たせる、という操作を行っているのだ」、と。

  

リンゴとナシを比べるとき、ぼくらは、キャベツを差し置いて、リンゴとナシだけを取り出す。つまり、まず、果実としての類似性に着目して両者を結びつける。そして、おもむろに両者の違いを数え上げる。すなわち、分離しようとする。

  

「橋と扉」というタイトルに即していえば、分離という意識なくして「橋」の必要を感じることはないが、しかし、逆に橋の存在が分離の意識を際立たせることもある。逸る気持ちで遠くの橋まで足を運ぶような場合だ。閉ざされた「扉」は分離の感覚を切なく喚起しつつ、まさにそれゆえに、手をノブへといざなう。

  

「分離」と「結合」は、分析と総合と置き換えて理解するのが穏当であるとして、しかし、それは諍[いさか]いと和解、別れと出会いなど人倫的な事柄に置きかえて捉え返すこともできるだろう。

  

  

2017年10月20日

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摘読録――My favorite words 第12回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

運命は従ふものを潮にのせ 拒むものを曳いて行く。

――ラブレー/山田珠樹訳  

  

シャルル・ヴィルドラックが、戯曲「商船テナシティー」でエピグラフとして引いた言葉である。この戯曲が1934年にジュリアン・デュヴィヴィエによって映画化され、日本で公開されたとき、そのポスターに、この言葉が惹句として引用され、その後、日本社会で広く知られるようになった。

  

原書では“Les destinées meuvent celui qui consent, tirent celui qui refuse.”としるされているこのエピグラフには、たんにラブレーからの引用であることが示されるのみで、日本語訳(創元社文庫版)にも出典は明記されていない。そこで、出典をつきとめるべく、ラブレーといえば『ガルガンチュワとパンタグリュエル』であろうと当たりをつけて、渡辺一夫の訳による岩波文庫版の頁を繰ってゆくと、第5の書第38章の末尾に次の言葉がしるされていた。“DVCVNT ・ VOLENTEM ・ FATA ・ NOLENTEM ・ TRAHVNT”。これは、パンタグリュエルたちが訪れた「徳利明神」の寺院の扉に刻まれていた「古代ラテン語」の碑文で、渡辺は、これに「宿命ハ諾[ウベナ]ウ者ヲ動カシ、拒ム者ヲ牽ク」という日本語を当てている。

  

ようするに、如何にしても運命には逆らえないということであり、別段どうということもない格言にすぎない。仏語訳も同様である。しかし、山田珠樹の日本語訳は、たんなる格言に終始してはいない。「潮にのせ」という意訳には倍音が響いている。ここにはニーチェのいう「運命愛」の音色が感じられるのだ。「運命愛」は、ニーチェの思想の要ともいうべきもので、生成流転する現実世界を――それが、どれほど悲惨なものであったとしても――あるがままに肯定し、自分自身の運命として積極的に受け容れる構えのことだ。

  

「潮」とは、ヴィルドラックの戯曲に即していえば、失恋と裏切りによる傷心をかかえてフランスからカナダへと大洋を渡る移民労働者の若者の姿を暗示する表現であるのだけれど、「潮にのせ」という文節には譬喩にとどまらない感覚がある。すなわち、陽光のなかに高々と差し上げられるような晴朗な昂揚感がみなぎっている。こうした昂揚感は、「従ふ」という語を、忍耐とか不屈の類義にとどまらせることなく、ポジティヴな意志の力によって満たしてもいる。

  

戯曲自体はニーチェとは無縁のセンチメンタルな物語であるものの、山田珠樹がスタンダールの研究にいそしんだひとであったことを思うならば、スタンダールを重視したニーチェの影をここに見出すのも、あながち牽強付会とはいえないだろう。

  

 

2017年9月11日
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