先生の本棚から

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第39回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

元来国と国とは辞令はいくら八釜[やかま]しくつても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それが大変高くなつて来るのですから考へなければなりません。

――夏目漱石「私の個人主義」(1914)

 

いまや日常と化したウクライナ戦争の戦況報道は、侵略者による容赦なき破壊と殺戮のテロリズムを朝から晩まで飽くことなく繰り返し伝えている。戦場のありさまを捉えた生々しい映像は視聴者の「道徳」的感情をゆさぶり、記事やアナウンスは「徳義心」を刺激してやまない。たとえば、マリウポリの戦災で死んだ人びとの遺骸が黒い納体袋に収められ、親族に見送られることもなく、共同墓地の塹壕のような穴に次々と投げ込まれてゆくさまを目にするとき強い情動に襲われずにはいない。それにつれて「自由」「民主主義」「人権」あるいは「主権」といった啓蒙主義の置き土産が情動の色合いを帯びて喚起される。

 

ロシアが軍事介入したチェチェン紛争やシリア内戦でも同様の蛮行があったことは知られている。また、焦土と化したマリウポリの光景は、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃、日本軍の重慶爆撃、アメリカ軍による東京大空襲、NATOのコソボ爆撃へと連想をさそわずにはいない。「低級な道徳」にもとづく国家の「無茶苦茶」は今に始まったことではない。歴史にその例はいくらでも見いだされる。にもかかわらず、ウクライナ戦争における悲惨は、それらの先例を差し置いて特段に強い情動を誘う。これは、たんに現在の出来事だからというだけのことではない。おそらくSNSによるところがきわめて大きい。

 

SNSを介して、戦場からリアルタイムで送り届けられる動画は、揺れ動くフレームのなかに暴力性と身体性とをはらんで情動とも道徳意識ともつかぬ想いを鋭く喚起する。SNSはまた、ジャーナリストたちが命がけで取材した情報をシェアすることで、その影響力を増幅している。映像のリアリティは、フェイクニュースやプロパガンダによって至るところで綻びを生じているものの、それじたいが戦争のリアリティとして訴求力をもつ。

 

戦争は侵略者たちの道徳意識をも屈折したかたちで喚び起こしている。彼らは道徳意識と無縁の構えをとっているわけではない。みずからへの非難をかわすための口実あるいはカモフラージュとして道徳を利用している。病院や民間人の避難所に対する攻撃を指弾する声々に対して、それがどうしたと開き直るのではなく、攻撃しているのは偽装された軍事拠点であって、民間人を標的にしてはいないと繰り返し主張している。つまり、みずからの行為の道徳的正当性を言い立てている。

 

 

厄介なのは、啓蒙思想に端を発する近代の価値観を蹂躙するロシアの行動が、冷戦体制崩壊後の世界を駆動してきた新自由主義[ネオリベラリズム]の似姿のように見えることだ。たとえば徴兵された若者たちを消耗品のように戦地に送り込むロシア軍の発想は、人間を「資源」として扱ってきた新自由主義の発想と異ならない。ロシアの若い兵士たちは日本の非正規労働者たちの姿に重なって見える。そこには非人道性という共通点が見いだされる。

 

いわゆる「西側」諸国の言論は、しばしば、この戦争について自由民主主義と専制主義の対決というお決まりの構図をもちだすが、新自由主義の蜜の味を知った口がそれについて語るとき寒々とした滑稽さを免れない。民主主義が専制政治を生み出すアイロニーはさておき、新自由主義の支配するところに民主主義は成り立ち難いからだ。

 

人間社会を市場に委ねる新自由主義は、「自由」の焦点を市場経済に絞り込むことで啓蒙思想に由来する理念的豊かさを削ぎ落し、経済格差によって中間層が衰亡するに任せて「平等」の理念を骨抜きにし、非正規労働者の過酷な生が物語るように「人権」をないがしろにしてきた。産学連携を既定のこととして高額な研究費で大学を釣りあげようとする「国際卓越研究大学法案」にみられるような学術研究への市場原理の導入は、「理性」という啓蒙主義の根幹への侵害にほかならない。

 

そのうえ、新自由主義は新保守主義と相携えることでカビの生えた道徳観や民族意識の復活を促してきた。これを経済格差による社会の分断に対する備えとみることが可能だとしても、国家の介入を可能な限り抑制したい新自由主義の構えからすれば警戒すべき発想であるにちがいない。とはいえ、ナショナリズムや道徳にかんする権力の介入は、啓蒙主義への背反という点で新自由主義と軌を一にしている。人びとの内心への介入は「寛容」という啓蒙主義の掲げた美徳の否定にほかならないからだ。このような状況において自由な意志にもとづく民主主義が成り立つ余地を見出すのは難しい。新自由主義は「民主主義」の危機を醸成してきたのである。

 

 

新自由主義が推し進めるグローバリゼーションのもとにあって、市場原理主義の非人道性に対抗する思想を練り上げ、鍛え上げる努力が為されなかったわけではない。しかし、それを社会的に定着させることができぬままに、今日に至った感を拭い難い。グローバリゼーションと足並みをそろえたインターネットの拡がりは、近代を脱却する動きを急激に加速したものの、啓蒙主義的理想に取って代わる脱近代の思想が、あらたな価値観や道徳意識を社会に定着させえたとはいいがたい。日本社会をかえりみれば、それに取って代わるべき近代の価値観や道徳意識が社会的に定着していたかどうかさえも疑わしい。

 

たとえば、このたびの戦争は生存権、自由権、幸福追求権など「自然権」と称される諸権利を、あらためて思いおこさせる契機となったが、わたしたちは、それらの権利を、また、それらを支える思想や道徳観念を、自明のこととして美辞麗句のなかに封印してきたのではなかったろうか。それらの権利の淵源について、あるいはその正当性について――「義務の首位性」(V.ジャンケレヴィッチ)という想念に至り着くほどに――深く思いをめぐらす思想的営為が、いったいどれほどあったろうか。人間の価値が資源価値として量られ、芸術的価値さえも貨幣価値で量られる時代のなかでこそ、それが問い直されてしかるべきであったと思われるのだが、その日月をわたしたちは、はたしてどのように過ごしてきただろうか。高踏的な理論は別として、なにげない日常のことばで――ということは、つまり美辞麗句の封印を解くようにして――このことについて沈思することが、いったいどれほどあったろうか。お定まりの批判は別として、状況の痛点を衝くリアルなことばを、わたしたちは有しているだろうか。みずからを省みて忸怩たる思いを禁じ得ない。

 

ウクライナ戦争が、あらためて突きつけて来る戦争の野蛮と卑劣、それとの対比において道徳主体としての自分自身を省みること、つまりは戦争を自分自身の問題として捉え返すこと。続々と送り届けられる彼の地にまつわる情報に接する日々にあって、漱石のこのことばは、そう促しているように読める。国家の「低級な道徳」に対して、お前の道徳は果たして高い水位を保ちえているか、と。蛮行を「最も強いことばで非難する」のだとして、その「ことば」とは――憲法9 条を踏まえたものであることは当然として――いったいどのようなものでありうるのだろうか、と。

 

この問いかけは切実だ。核戦争にもつながりかねない戦況が、事柄を自己の問題として捉える切実さを、SNSのリアルな動画と相俟って強化している。

 

 

ロシアと、それを非難する西側諸国の鏡像的相似性は当然のことと思われないでもない。そもそも、1991年にソヴィエト連邦が解体されたのち、ロシアもまた新自由主義[ネオリベラリズム]が駆り立てるグローバリゼーションの動きに呑み込まれて今日に至っているのだ。人権や人道を踏みにじっていないと侵略者が抗弁するのは、グローバリゼーションにおける経済ネットワークから疎外されることを怖れるからだろう。

 

だが、事柄は、もうすこし複雑な様相を帯びている。

 

1990年代にアメリカ主導のグローバリゼーションによって憂き目をみたロシアは、2000年代に入るとプーチン政権が国家による市場への介入を強めることで活気立ち、それと並行して権威主義的な政治へと急速に傾いていった。これは、市場への政治の介入を嫌い、「小さな政府」を標榜する新自由主義に対抗する姿勢にほかならない。しかも、それがグローバリゼーションの経済ネットワークの内部での動きであることが、さきにみたような厄介な状況を形成したのである。

 

とはいえ、西側諸国においても、2000年代に入ると、リーマン・ショックを契機として新自由主義の市場原理主義に対する不信がひろがりをみせ、政府による市場への介入が行われるようになる。また、これと相前後してポピュリズムと権威主義が競り合うようにして台頭してくるのだが、そうした動きのさなかで到来したのが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックだった。市場原理では抑えようのないパンデミックは、「小さな政府」を標榜する新自由主義の脆弱性を決定的なかたちで暴き出し、「大きな政府」が――あるいは政治の介入が――翹望されることとなった。地球温暖化対策という国際問題も、その動きを加速した。

 

こうして急場しのぎに政治の発動が要請されることになったわけだが、「小さな政府」に甘んじてきた政治が、あたふたと試行錯誤を繰り返しているあいだに、状況の虚を衝くようにして、このたびの戦争が始まったのだった。

 

ただし、事柄は自由資本主義か国家資本主義か自由民主制か権威主義体制かといった体制的次元にとどまるものではない。また、単純な善悪二項対立で済む事柄でもない。

 

 

グローバリズムとロシアの関係は、ヨーロッパをモデルとする近代化とスラブ的なものの確執を抱え込んできたロシア近代の繰り返しのようでもある。ナポレオンのフランスと、ナチスドイツに侵攻された記憶はNATOへの警戒心とまちがいなく連動している。ウラジーミル・プーチンの発想に「大ロシア主義」あるいは「汎スラブ主義」への思いが見え隠れしている理由も、おそらくここにある。プーチンは西側の新自由主義に取って代る普遍的価値を宣布しようとしているのかもしれないのだ。とはいえ、それが「大ロシア主義」という大国主義的パターナリズム(父権主義)に結びつくとき――たとい歴史的経緯に配慮しても――粗暴な独善の誹りはまぬかれない。

 

そればかりではない。そうしたプーチンの言動をロシア正教会がバックアップしている。これは、ロシアにおける皇帝が、実質上、正教会の長であったことを彷彿させずにおかず、このことがウクライナ戦争を深い陰影で包み込んでいる。このたびの戦争をめぐる問題は、どうやら中世にまで、その根を届かせているようなのだ。

 

ロシアと西側諸国のあいだに引かれたスラッシュは、おもいのほか深い亀裂を成しているらしい。しかも、宗教と国家の結びつきは、ひとりロシアにみられるばかりではない。信仰の内面性を脱して宗教と国家が結びあう現象は、政教分離という啓蒙主義の政治スタンスの根本的な見直しを世界各地で迫っている。

 

 

SNSやマスコミが伝える数々の戦争犯罪は、加害者のみならず、それを非難する者たちの道徳意識を批判的に捉え返す契機ともなる。人間の諸権利を踏みにじる陰惨な戦闘の情報は、これまで当然のことと思いこんできた諸権利の場に、暗くて深い穴が、ぽっかりと口を開いていることに気づかせずにはおかないからだ。

 

この穴は、新自由主義が跋扈したグローバリゼーションの年月に打ち捨てられて顧みられなかった啓蒙主義の置き土産の墓穴にほかならない。それはまた、核ミサイルをたばさむ近代にとっての他者を育んだ闇の領域でもある。

 

この暗くて深い穴を覗き込んでみること。今日の危機にさいして、わたしたちを見舞いつつある出来事を了解するためにまず為すべきことは、これを措いてほかにない。

 

闇を覗き込むとは、探照灯によって闇を掘削することであり、そのあげく思いもよらぬおぞましい光景を目の当たりにすることになるだろう。それはまた、暗い穴の縁であやうくバランスをとっている自分自身の体勢に揺さぶりをかけることでもあるにちがいない。だが、この危うさを受け容れることなく、現在の状況を了解することができるとは思われない。

 

穴の底にうずくまる闇に眼を凝らすことによってはじめて、目の前に立ちふさがる近代の他者を揺り動かす言動に近づきうるのではないかと思う。体制として実体化された思想に混乱を引き起こし、その混乱のなかから未曾有の何かを掴み出す作業こそ思考の名にあたいするということを肝に銘ずるべきだろう。それは独善の愚昧から脱却する道でもあるはずだ。

 

 

蒙昧主義は警戒すべきだし、喧嘩両成敗などと間抜けたことをいうつもりもない。

 

ロシアのウクライナ侵攻は、国際関係における武力行使を禁じる国際法に違反しており、その意味で不当といえる。ウクライナの軍事行動は個別的自衛権の行使であって、国際法に照らして正当性をもつ。しかし、「国際法」に則って事柄を批判するのとは別に、紛争解決に武力行使を禁ずる「法の精神」を成り立たせたさまざまな力のせめぎ合う場へ向けて、すなわち、深い穴の底へと降ってゆくようにして、予断なく思考を推し進めてゆく作業が必要なのだ。この作業は人間という存在が抱える闇の領域へと踏み込むことにほかなるまい。

 

漱石は、人間の不条理性を「底なき三角形」(「人生」1896)に譬えたが、「意識」と呼ばれる三角形の尖端から、潜在意識あるいは無意識へと開かれた不在の底辺へと下降してゆく思考に、戦争を押しとどめる即効性があるとは、とうてい思われない。しかし、いまこのときにあって、戦争が指し示す近代の奈落へと思考を差し向けることは、戦争ののちの世界へと思いを馳せることでありうるはずだ。ヨーロッパ近代の啓蒙主義が掲げた普遍性それ自体をあらためて普遍化する道筋として――近代が掲げた「普遍」概念を、文化的多様性を含み込むかたちで踏み込んで普遍化する道筋として――奈落くだりは避けてとおることのできない試練なのだ。それが啓蒙主義なるものをアップデイトする手立てでもあることはいうまでもない。

 

2022年4月28日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第38回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭 

  

なぜならば、病気というものは、あらゆる経験が明らかにしているように、形容詞なのであって、名詞ではないからである。

――フロレンス・ナイティンゲール/薄井担子、小玉香津子ほか訳『改訂新版 看護覚え書』(1860)

  

ナイティンゲールは、病気は自然の力による「回復過程a reparative process」であると考えていた。症状の悪化にともなう苦痛や鬱情を思うとき、病気を「回復過程」とする見方は奇妙に感じられるが、彼女は自説への反論を予想しつつ次のように書いている。自然の回復過程を阻害することから生ずる苦しみや痛みを取り除いたとき、病気ほんらいの痛みや苦しみが明瞭になるだろう、と。

  

自然の回復過程がまっとうに進行するうえで必要なものとは何か。看護に携わる立場から「患者が呼吸する空気を、患者を寒がらせないで、外気と同じように清潔に保つこと」だと彼女はいう。そして、酸性雨の発見者として知られるアンガス・スミスの大気汚染検査法を看護に応用する可能性にまで説き及んでいる。現在、わたしたちが手にすることのできるコンパクトなCO2濃度測定器は、その一実現形態だ。

  

そればかりか、彼女は換気こそ感染に対する「唯一の防御策」だとも述べている。もちろん、接触感染は換気によって防ぐわけにはいかないのだが、この期に及んで感染症の専門家たちが、新型コロナウイルスのエアロゾル感染に対する注意を喚起し、対策を政府に提言している日本社会の現状を思うとき、彼女の指摘は、にわかに新鮮なリアリティを帯びてくる。

  

  

病気が回復過程であるとする根拠についてナイティンゲールは理路や根拠を示していない。無記の姿勢をとっている。だが、人間の身体にそなわる自然治癒力を思い浮かべれば、この見方は直観的に納得がゆく。

  

しかし、それ以上に重要なのは、病者を孤立させない発想が、ここに認められることだ。病気が回復過程であるならば、病と健康を連続の相で捉えるのは当然であり、じっさい換気にしても、病者にのみかかわる注意事項ではない。健康な人間の日常においても重視されて然るべき事柄だ。しかし、この当たり前のことにかんして、自分たちが意外と無神経であったことをCOVID-19 の経験は教えてくれた。

  

子どもや老人たちのように特段の配慮を必要とする人びとの日常にかんしては、ことさら換気と室温への配慮が重要であるのはいうまでもないが、これを実行するためには、なによりもまず見守るという行動が必要となる。冒頭のことばは、このような構えから発せられている。見守るべきは、「痛い」「苦しい」「辛い」「寒い」「暑い」などの「形容詞」を喚起する兆候だからである。

  

  

では、「名詞 noun substantives」とは、いったい何を指すのだろうか。まずは病名と理解するべきだろうが、彼女は病名の背後に実体的な病因を想定する発想を否定している。「なぜならば」の前のところに彼女は「いろいろな病気が発生し、成熟し、そしてそれが他の病気に変化していく」のを目にして来たとしるしており、病気というのは猫や犬のような実体ではないというのだ。

  

病原体という存在が知識として念頭にある者からすれば、原因としての実体を否定する発想には違和感を覚えざるをえない。しかし、『看護覚え書』が 出版された時代は(初版1859)、微生物を病原とみなす細菌学の黎明期にあたっていたことを思えば、ナイティンゲールの病理観は、やむをえない歴史的限界として理解できるし、『看護覚え書』の数年後に刊行された『病院覚え書』(1863)では病原菌の存在を認めてもいる。

  

揺れがみとめられるわけだが、この揺れは“care”と“cure”のあいだの揺れのようにみえる。“care”は「世話」「配慮」「保護」「介護」「看護」などに対応する語であり、外来語「ケア」として日本社会に定着している。“cure”は「治療」「医療」「矯正」「治癒」「回復」などの語に対応し、外来語の表記は「キュア」である。

  

ナイティンゲールの知見は、「ケア」と「キュア」のあいだで、ただし、思いを大きく「ケア」へと傾けながら揺れているのだ。

  

  

病気というものは、病者自身の受苦の意識も含み込む複雑な関係態であって、それを単一の実体に帰するのはむつかしい。このような病気の有りようを、「ケア」と「キュア」という概念で捉え返すならば、キュアに従事する者は、病原体はもちろん器質的変化の有りようなど「名詞」的実体性の方により強い関心を抱くだろうし、ケアの実践においては、先にもみたように、なによりもまず容態を示す「形容詞」的次元に注意を向けることになる。ナイティンゲールは、この両者に目を配りつつ思考を重ねていたがゆえに揺れが生じたのである。

  

ただし、揺れとはいいながら、“care”と“cure”という二つの語の『看護覚え書』における出現度は“care”の用例が圧倒的に多く、ここにも彼女の関心の焦点がケアにこそあったことが示されているのだが、彼女が健康人と病者をひとつづきの過程として見ていたのは、まさにケアへの関心ゆえのことであった。彼女は、こう書いている。

  

患者にどのような結果が生じるかについて正確な判断を下す能力があるかどうかは、その患者が生きているすべての状態についての探究のいかんにかかっているのである。

  

「その患者が生きているすべての状態」に対する見守り。これがケアの要諦であることはいうまでもないとして、このくだりの直後で、彼女は大都市の複雑きわまりない社会状況に言及している。ナイティンゲールに即して考えるならば、ケアとは、このような社会的広がりのなかで捉えられるべきものであり、しかも、それは時間的な広がりでもある。すなわち、ケアはキュアのはるか以前から、また、キュアののちまでも続いてゆく一連の社会的な過程なのだ。たとえば社会的に弱い立場に立たされがち老人や子どもたちは、つねひごろから特段のケアを必要とするわけだし、また、不治の診断をくだされた病者のようにキュアののちにもケアは続いてゆくのである。

  

このような見方に立つならばキュアというのは、ケアの一過程ということになるわけで、こうした認識は、医療現場における「対等-従属 equal-subordinate」弁証法の問題――すなわち組織上は対等であるにもかかわらず現場において看護師が医師の下位におかれがちな現状に対する批判的視座をも提供するのにちがいない。それはまた、訪問介護が医療の重要な一次元を成すに至った超高齢社会の現状にとっても重要な問題提起となるはずだ。

  

  

この本で「看護」と訳されている元の単語は“nursing”である。“care”が“nursing ”と重なる意味合いで用いられている箇所もみられはするものの、基本的に“nursing”が「看護」に対応している。

  

しかし、ナイティンゲールは“nursing”という語に必ずしも満足してはいなかった。「私はほかによい言葉がないので看護という言葉を使う」と、はっきり書いている。薬の投与や湿布を貼る程度の意味で用いられていた“nursing”という語に違和を覚えた彼女は、その再定義を本書で企てたのだ。

  

「看護」を「ケア」と呼びかえ、高齢社会において注目度の高い“care ”という単語に繋げたのは、だから、本書の企てへの加担でこそあれ、けっして、それを歪曲することではない。あるいは、踏み込んでいえば、このようにいうことも可能だろう。“care”こそ“nursing ”の本体なのだ、と。

  

  

 

 

2022年3月9日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第37回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

――よみ人しらず『古今和歌集』(10世紀初頭)

 

ピーター・J・マクミランが、『朝日新聞』に連載中の「星の林に」で、この歌を次のように英訳していた(2022年1月16日朝刊)。うつくしく、また正確な訳だと思う。

 

At the break of day

I watch in deep thought

a boat hidden by an island

at Akashi no Ura

in the morning mists.

 

ことに目を引くのは“I watch in deep thought”という詩句だ。これは、もとの歌の5句「~しぞ思ふ」にあたるわけだが、『万葉集』に多くみられるこの言い回しは、たいていの場合、遠く離れているひとをしみじみと思う意味で用いられている。こうした用例を踏まえつつ、片桐洋一は『古今和歌集全評釈』で次のように述べている。

 

「しみじみと思う」対象は、単なる舟ではなく、まさに「嶋に隠れ行く舟」であり、作者の目は、「朝霧」の中に姿を消してゆく「嶋隠れ行く舟」を包む景を情趣的にとらえている

 

舟を追う視線は、その姿を明視することはかなわない。霧のまといつく視線は焦点を定めがたい。「情趣的」とはそのような視覚的イメージを言い当ている。霧の奥へと漕ぎ進みつつ、舟がやがて島陰に隠れてゆく、その一部始終を見ていたとしても、視覚は常におぼつかなく、しかも、この経験が歌としてかたちを成すときには舟の姿はすでに網膜上には存在しない。記憶に由来するイメージとして思い浮かべるほかない。“in deep thought”という言い回しは、こうした消息を伝えてもいるように思われる。これは、片桐が「包む景」という印象的な言い回しをしたゆえんでもあるにちがいない。

 

このように考えてくると、霧の奥へとフェイドアウトしてゆく舟は「見ること」から「想い描くこと」へと視線を導く仕掛けであり、見方を変えれば外界から内界へのスウィッチのように思われてくる。その境にことばの舟はたゆたっている。明石の浦が畿内と畿外を分かつ境界を成していたことを、ここに重ねてみてもよいだろう。

 

つまり、「島隠れゆく舟をしぞ思ふ」という句は、ふたつの世界を連接しているわけだが、この連接を可能にしているのは朝霧にほかならない。霧は、これらふたつの世界を成立たせつつ、それらを包み込んでいる。霧はふたつの世界を分け隔てつつ、ふたつの世界にわたってただよっている。

 

だから、想い描かれる舟の姿もまた、眼に映る姿と同じく曖昧に輪郭をぼかされている。遠ざかる舟の水脈[みお]は「見ること」から内的な「想い描くこと」へと折り返してゆく行路と重なるのだが、そこに立ち現われてくる想像の舟も霧のなかへ消え去ろうとしている。消え去ろうとして消え去ることなく、あたかも「ゼノンの矢」のように、いつまでもそこにとどまり続けている。

 

「島隠れゆく舟」が、霧の奥へと視線を誘い込んだあとには薄あかるい霧の光景だけが残される。そのとき、視界をうっすらと覆う水蒸気は、視線と共に身をも包み込まずにはいない。視線を吸い込む霧は、視線を伝って身に迫る。こうして、ひんやりとした“the morning mists”に身を包まれる感覚がもたらされる。

 

一首の眼目は去りゆく舟である。遠ざかりながら、決して消え入ることのない舟のヴィジョンこそ一首の鑑賞の尽きるところである。しかし、そうだとしても、一首をめぐる思いは鑑賞を越えて、さらに遠くへといざなわれずにはいない。舟も島影も霧の奥に消え去り、すべての形象が消滅するところへと思いは惹きつけられてゆく。そして、一首の眼目は、舟も島も、そして、それらを眺める身をも包み込む朝霧へと徐々に転じてゆく。

 

動きつつとどまりつづける舟の残影をうっすらと宿すほのかな朝霧、その立ち籠める水蒸気にまつわる「物質的想像力」(ガストン・バシュラール)が、消え去ろうとする形象の彼方で、わたしたちを待ち構えているのである。

 

2022年2月18日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第36回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

はじまりの朝の 静かな窓

ゼロになるからだ 充たされてゆけ

 

―― 覚 和歌子「いつも何度でも」(詩集『ゼロになるからだ』所収)より

 

たとえば千の位に0が記されている場合、その位がからっぽであることを意味している。ただし、それは無ということではない。位取りにおける場所を有しているからだ。

 

「無」は「有」の対義語だが、「空」は有と無を絶したところにあらわれる。位取りされることにおいて無ではなく、内実が空っぽである点において有でもない。0は無でもなく有でもない。あるいは無でありながら有でもある。それは有と無の二項対立を超えている。

 

0は死の隠喩でもある。「ゼロになるからだ」というフレーズは死を思わせずにおかない。

 

ただし、「ゼロになる」というのは、たんにこの世から消え去ることを意味するのではない。「ゼロになるからだ」の輪郭や位置は、かつて自己が居た現世に属し、存続している。はじめは死骸として、やがて俤として。

 

「ゼロになるからだ」に「いつか」、「ついには」などの語を補って読むことも可能だが、「はじまりの朝」はすでに訪れつつあり、しかも、このフレーズでは一日の「はじまり」である朝が、別次元の「はじまり」に位置づけなおされている。「はじまりの朝」とは特別な朝であり、決定的かつ終局的な転換を思わせずにおかない。ここにいう「はじまり」とは、つまり死のことであり、「はじまりの朝の 静かな窓」に映し出されるのは、自己が消え去ったのちの、あるいは消えゆく自己の光景なのである。「はじまり」はつねに「おわり」であり、死という名の「おわり」こそほんとうの「はじまり」、すなわち「おわり」なき「はじまり」なのだ。

 

「充たされて」ゆくというのは、だから、現世的には空位となった自己の場所に、自己ならざる何かが流入してくるということ、踏み込んで言えば宇宙のエレメントが――それはかつて自己を成り立たせていたものでもあるのだが――流入してくることを指す。そこが空位となったのは、いうまでもなく自己なるものが解体し、流出していったからであり、そこに生じた真空は世界のエレメントを引き寄せ、そこに流入させずにはおかない。そういえば、からっぽの「から」は「からだ」の「から」と語源を同じくしている。

 

「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」とはoutとintoのダイナミズムであるわけだが、思えば、これは生きてあるあいだにも見出されるところであった。呼吸のメカニズムに想到するならば、このことは即座に了解できるだろう。この詩句は「生死一如」の境位を指し示している。

 

 さよならのときの 静かな胸

 ゼロになるからだが 耳をすませる

 

 生きている不思議 死んでいく不思議

 花も風も街も みんなおなじ

 

この詩はアニメ『千と千尋の神隠し』の主題歌として親しまれており、木村弓の曲に乗ってカラオケでも愛唱されているようだ。

 

先日、二年ぶりに同世代の友人二人とカラオケに行って、心ゆく時間を過ごした。この歌が選曲されることはなかったが、静かでほのかにあかるい友人の歌声を聴きながら俗謡の力というものを改めて感じた。

 

ぼくらの胸の奥深くに張られている琴線に触れるものが俗謡にはある。というか、俗謡によって初めて響きを発する心の琴線というものがあって、ある瞬間、覆される宝石ように弦の音がきらめく。そのきらめきは、時に、虚飾を去った真実の輝きのように思われもする。この真実は俗世に生きる愉楽であり、また、寂寥でもあるだろう。もういちど、「いつも何度でも」から引いておこう。

 

 かなしみの数を 言い尽くすより

 同じくちびるで そっとうたおう

 

 

2022年1月11日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第35回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

青山元不動

白雲自去来

――『禅林句集』

 

数日前の午前のこと、散歩をしている道すがら、とある邸宅の広やかな前庭に、円柱が二本ならんでいるのが目にとまった。ひとの背丈を越える大きさだ。いくどか通ったことのある場所なのだが、それまで気づかなかったのは庭の奥処に立てられているせいだろう。白く輝くそのすがたが目をとらえたのは、初夏とは思われない強い日差しのせいだったのにちがいない。

 

目を凝らすと、円柱には、草体で漢字が刻まれていた。右の柱には「青山元不動」、左に「白雲自去来」とある。禅宗の教義にまつわるアンソロジー『禅林句集』に収められていることばだ。この邸の主は禅学に造詣のある人物らしい。

 

帰宅後、架蔵の岩波文庫版(足立大進編)で確認すると、出典は北宋の『景徳伝灯録[けいとくでんとうろく]』とあるので、さっそく国立国会図書館デジタルコレクションで当ってみたところ、語句にわずかな違いのあることが分かった。原典では「青山元不動 浮雲飛去来」なっているのだ。「青山もとより動せず、白雲自[おの]ずから去来す」と「青山もとより動せず、浮雲飛びて去来す」のあいだに、たいした違いはないようにみえるかもしれないけれど、ぜんぜんイメージが異なる。だんぜん「白雲」の方が鮮やかだし、「自ずから」というところに奥深い自発性が感じられるところもいい。雲の白と、緑なす青山の対比も効いている。

 

『景徳伝灯録』では、この対句が生まれた状況が示されている。唐代の禅僧霊雲志勤[れいうん・しごん]にまつわる話だ。ある僧侶が「如何でか生老病死を出離することを得ん(どのようにしたら生老病死の苦しみから抜け出すことができるでしょうか)」と問うたところ、志勤は、この句を以て応じたというのである。桃の花がさきほこるようすを見て悟りを開いたとされる志勤に如何にもふさわしい逸話だが、問答に即して考えれば、対句は、こんなふうに解釈することができる。「生老病死」すなわち仏教でいう「四苦」は、しょせん逃れえぬものであるとして、しかし、それによって自己の本体が変わるわけではないのだ、と。『般若心経』の文句を借りれば「老も死もなく、また、老と死の尽くることもない」と言い換えることもできるだろう。

 

だが、この対句は、こうした解釈を遥かに越える魅力をたたえている。大空を去来する白雲の輝きと、それらが影を落とす青々とした夏山の光景が文字を介して脳裡いっぱいにひろがる。地学的な時の流れにおいて山もまた白雲のように去来する存在であり、去り行く白雲と流れ来る白雲とは「白雲」であることにおいて何ら変わりはない。山に対して雲が動き、雲にとっては山が動くという相対的な運動のイメージを思い浮かべてもいい。ようするに、この句において無常と常在はひとつであって、ふたつの事柄ではない。そのことが鮮明な夏の光景において無言のうちに示されている。

 

ちなみに、この語は禅宗の最古の宗門史である『祖堂集』までさかのぼる。そこに「白雲は白雲の好きにまかせ、青山は青山の好きにまかす」ということばが見いだされるのである。白雲も青山も、それぞれに自在であれと説いているわけだ。Let it be.といってもいい。

 

しかし、それにしても、いかなる思いから、円柱状の碑が庭に立てられたのだろう。その奥には傾斜地に沿う細道がつづいているようにみえたが、ひとを仏心へといざなう企てでもあるのだろうか。それゆえ通りから望むことのできる位置に敢えて立てられもしたのだろうか。もしかするとセメント製だったかもしれないあれらの柱は、強い光のもとで白い石のように輝いていた。十の文字を身に帯びて光のなかに静かに佇んでいたあの日の円柱の姿は、忘れがたい初夏のかたみとなった。

 

 

2021年5月19日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録ーーMy favorite words 第34回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

   

年年歳歳花相似

歳歳年年人不同

――劉希夷「代悲白頭翁」

  

劉希夷[りゅう・きい]は7世紀中国の詩人。容姿は端麗、音楽と酒とを愛する自由人で、時流に流されず、毀誉褒貶にこだわらない人柄だった。科挙最難関の進士[しんし]の試験に合格したが官職に就かず、遊歴しつつ詩を詠んで気ままに暮らしたと伝えられている。こうした人柄は、『老子』に由来する「希夷」という字[あざな]に示されている。俗見[ドクサ]に逆らう深遠な道理を示すこの名を詩人は自らの呼び名として選んだのだ。

   

28歳で没しているから、ここに引いた代表作の「白頭を悲しむ翁に代わりて」は、題名にあるとおり、老齢の身に成り代わって、その悲しみを詠んだ作と知られる。すなわち、作中の「言を寄す全盛の紅顔の子/応[まさ]に憐むべし半死の白頭翁を」という詩句は、そして、「年年歳歳花相似たり/歳歳年年人同じからず」という上掲の聯を挟んで対置される「今年花落ちて顔色改まる/明年花開いて復[また]誰か在る」も、これらはすべて若くうつくしい自分自身――「紅顔の子」である自己――へと差し向けられた言葉なのだ。

  

多感な青年に寄り添う老翁の影は、死によって画され形づくられる生の根源的な有りようを示している。それはまた、夭折の詩人に相応しい生の不安でもあるだろう。

   

30年に満たぬ生涯に35首の詩を残し、そのうち「白頭を悲しむ翁に代わりて」を含む2首が、千年後に編まれた詞華集『唐詩選』に採られた。一説によると劉希夷は、この白頭翁の詩をめぐる諍[いさか]いがもとで殺害されたという。

   

  

2021年3月10日改稿

2021年3月2日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第33回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

  

活動しゃしんで運動を見る方法がつまり学問の方法だろう。無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。しかし、絵かきはもっと他の方法で運動をあらわしている。

――朝永振一郎「滞独日記(一九三八年四月七日-一九四〇年九月八日)」より

  

「活動しゃしん」すなわち映画は運動する被写体を1秒24コマに収めることで、運動にまつわる自然な視覚像を再現する。いってみれば運動に似た状態を知覚にもたらすわけだ。DVDの場合は、コマ数がもっと多いが持続する運動を間断なく捉えうるわけではない。いってみれば近似解であって、正解ではない。とはいえ、しぜんな知覚を得ることが目的ならば、それで充分といえる。だが、充分であるとして、それは決して正解ではない。ここに引いた朝永振一郎の日記の一節はそんな循環のなかに思考が入り込む瞬間を思わせる。学問[サイエンス]におけるクリエイティヴなゆらぎ[、、、]といってもいい。

  

画家が運動をあらわす「他の方法」とは、いったい、どのようなものだろうか。アルベルティは、透視図法の説明において視覚のピラミッドを想定しつつ、その頂点は両眼の奥にあると述べているが、この頂点は両眼視差をやりくりする脳内情報処理によって見いだされる。透視図法は無限の均質空間を前提とする点において学問[サイエンス]に近いものの、両眼視差のやりくりは個別的な過程であり、その個別性に画面のリアリティが胚胎される。

  

しかも、視差のやりくりには身体の次元もかかわってくる。両眼は身体に埋め込まれているのだから当然のはなしだが、事柄の焦点は、身体が絶え間なく運動しているという事実だ。透視図法は、この事実を切り捨てることで初めてなりたつのであり、それゆえ、じっさいの視覚を正解とすれば、その近似解でしかありえない。生きている身体は絶えざる運動のなかにある。

  

ターナーが《吹雪――港の沖合の蒸気船》(1842)を描くにあたって、嵐の海に乗り出した船の帆柱に身体を縛り付けて4時間を過ごしたという逸話は、まさに、相関する身体と眼の事情を伝えている。身体の動きを、そして海や大気の動きを、ふたつながら宿すヴィジョンを、ターナーは得ようとしたのである。王立美術院展に出品されたときのこの絵の正式なタイトルには「作者は、エーリエル号がハリッジを出港した夜のこの嵐のなかにいた The Author was in this Storm on the Night the “Ariel” left Harwich」としるされていた。

  

  

しかし、もちろん、揺れ動くヴィジョンを静止した画面にそのままもたらすことなどできはしない。では、どうすればよいのか。たとえば、ジョワシャン・ガスケがしるしとめた次のようなセザンヌのことばは、このアポリアを乗り越えるヒントを与えてくれる。山梨俊夫の訳から引く。 

  

感覚は、充実しているとき、存在全体と一致する。世界のめまぐるしい運動は、頭脳の奥で、眼、耳、口、鼻が、それぞれ固有の情熱をもって感じ取る同じ運動のうちに溶けていく・・・・・。

  

このことばは、ターナーが吹雪の絵のタイトルで、みずからを画家ではなくThe Authorと称していることに思いを差し向けずにはいない。彼はヴィジョンを提示しつつ、五官が伝える海と身体の「めまぐるしい運動」を「頭脳の奥」を経て記述しようとしたのだ。古代の歴史叙述が重視したヴィヴィッドな実体験の叙述、すなわち「エクフラシスekphrasis」の精神である。

  

  

科学と芸術の浅からぬ因縁に思いを誘う朝永振一郎のことばを教えてくれたのは、高野文子の『ドミトリーともきんす』という本だった。若い科学者たちの宿舎[ドミトリー]を舞台とする科学読み物である。住人は牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹、そして朝永振一郎。みごとにキャラクター化された若き日の四人の日常がコマ割り漫画スタイルで描かれ、そこに、それぞれの著作から引いたことばと短い解説が添えられている。

  

高野は、たとえば『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』にみられるような抒情的な線を抑えて、ここでは科学の解説書のイラストを思わせる硬質な描画を試みている。高野は「あとがき」にこう書いている。「わたしが漫画を描くときには、/まず、自分の気持ちが一番にありました。/今回は、それを見えないところに仕舞いました」、と。

  

「いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか」(「詩と科学――子どもたちのために」)という一行を含む湯川秀樹のことばで締めくくられている本書は、クールな詩情によって自然科学のかわらぬ清新な魅力にあらためて気づかせてくれる。地味ながら心に残る素敵な本だ。

  

  

2020年11月6日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第32回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

幅のひろい水によって大陸から隔てられ、尊大な気分によって僚友たちから隔てられたまま、彼は、極度に分離した、連絡のない姿となって、髪をひらめかせながら、ずっと向こうの海のなかを、風のなかを、霧のごとく無際限なものの前をそぞろ歩いていた。

 ――トーマス・マン/実吉倢郎訳『ヴェニスに死す』(岩波文庫、2000)

 

すでに富と栄誉を手にした初老の作家グスタアフ・アッシェンバッハを旅へと駆り立てたのは「内心の空洞と生物学的な衰微」であった。「内心の空洞と生物学的な衰微」というのはアッシェンバッハが描き出す人間像にかんする評言だが、思うに、これはアッシェンバッハ自身にも当てはまる。年齢をかさねるにつれ、この作家の作風は奔放性や新味のある陰翳を欠くようになり、硬質な定型性を帯びるようにさえなっていたからだ。「生物学的な衰微」を克服し「内心の空洞」を生気で満たすために、とりあえず遠国の空気につつまれて怠惰な「即興的生活」を送ることが――優雅な無為が――必要だと彼は考えたのである。この心的「空洞」と生物的「衰微」が出現させるモアレの変幻として、あるいは、心身における凋落と賦活のアイロニカルな矛盾として、この小説は展開してゆく。

 

心身を恢復させる「即興的生活」を求めて訪れたヴェニスで、作家は小説のタイトルにあるように「生物学的な衰微」の極に立ち至ることになるのだが、衰微の兆は早くも小説の冒頭に見いだされる。真新しい十字架や墓碑の並ぶ石工場の柵に沿って、アッシェンバッハが五月のミュンヘンを散歩しているところから、この小説は始まるのだ。そればかりではない。彼の旅心を誘ったのは、散歩の途中、夕日に照らされる斎場で目にした不思議な異国風の男の姿だった。

 

旅の行き先をヴェニスに選んだことにも衰微の徴候が見いだされる。かつて同じ季節に訪れたヴェニスで彼は健康を害したことがあるのだ。潟[ラグーナ]の腐臭を運ぶ湿った熱風[シロッコ]に体調を崩したのである。それにもかかわらず、アッシェンバッハがヴェニスを滞在先に選んだことには、この初老の小説家の無意識の傾斜が示されている。彼は執筆のために肉体的な基盤を整えようと意図しながら、それと矛盾する行動をとっている。すなわち、生の充実を求めつつ、彼は「死の欲動[タナトス]」に駆り立てられていた。あるいは、逃避的に「死の欲動[タナトス]」に心身をゆだねようとしていた。

 

船路[ふなじ]でヴェニスに着いた作家は、ゴンドラと小型蒸気船[ヴァポレット]を乗り継いでリド島のホテルに向かうつもりであったが、差し出がましい船頭[ゴンドリエーレ]によって、ゴンドラに身を託したまま目的地まで運ばれてゆくことになる。「ほかのあらゆるものの中で棺だけが似ているほど、一種異様に黒い、このふしぎな乗物」に揺られて作家は死地へと導かれてゆくのだ。ゴンドラが棺であるならば、船頭[ゴンドリエーレ]は、さしずめ冥府の渡し守カロンというところだろう。

 

 

ホテルに落ち着いたアッシェンバッハは、やがてホテルの泊り客のなかに端正な顔立ちの少年を見いだし、たちまち心を奪われる。ロビーで、食堂で、エレヴェイターのなかで、ホテルの宿泊客専用の渚で、彼は少年を見る。その姿を追い求める。作家は、タッジオという名のそのポーランド人少年を古代ギリシャ彫刻になぞらえ、あるいは、生きている古代ギリシャ彫刻と見なして嘆賞する。彼は、純粋に完成された形式が比類のない個性のなかに実現されている姿を、そこに見いだしていたのである。

 

普遍的な形式が個別的な存在として実現するというのは一種の矛盾であり、この矛盾は優れた芸術作品というものの特質といえるのだが、しかし、それはやがて危険な裂け目となってアッシェンバッハを呑み込むことになる。そのように小説は展開してゆく。心を介して生を整え、秩序を与えるはずの形式が、形式それ自体の放つ魅力によって心を捕えることになるのだ。

 

こうして、アッシェンバッハはみずからの外部に、魅惑の源泉として形式を見いだすことになる。それによって生は、みずからを内在的に秩序づける形式から解き放たれることになる。いいかえれば、形式とのあいだに隙間が生じる。このことは作家が、ディオニソスの狂宴の夢を見る場面にはっきりと示されている。ディオニソス的なアモルフな生への渇望に彼を駆り立てたのは、もちろん少年の存在だった。ホテルの宵のテラスでタッジオが彼に微笑みかけたとき、老作家は動揺し、急いでその場をはなれ、おののくようにしてつぶやきを洩らす。Ich liebe dich!、と。

 

陳腐ともいえるこの愛の決まり文句は、空洞を抱え込んだ内心を共鳴胴[サウンド・ボックス]として、作家の満身に響き渡る。この響きの谺のようにタッジオの面影が「内心の空洞」を一挙に充たし、溢れ、内心の形式を見失った初老の作家を呑み込んでゆく。みずからの思いが、品位も威厳もない常套句を介して認識にもたらされたとき、彼は、その認識を梃子として影像へと身をまかせることになる。形式Formと生Lebenの裂け目から出現した面影Bildに呑み込まれてゆく。

 

 

ゲオルク・ジンメルは1916年のエッセイ「文化諸形式の変遷」のなかで、「創造的生はたえず、(中略)固有の存在権をもって生に拮抗するものを生み出す」と指摘し、「生に拮抗するもの」を「形式」の語で言い止めている。その形式は、生のダイナミズムから産出されるのだが、そのダイナミズムゆえに生は形式を喰い破ろうとせずにはいない。こうした矛盾にジンメルは文化の本来的な悲劇性を認める。そして、同時代の芸術を未来派に代表させつつ、このようにいう。酒田健一の訳から引く。

 

生の発現がこの矛盾を避けるためにいわば形式を脱ぎ捨てたあらわな姿でおどり出ようとするとき、そこにあらわれるのはおよそ理解を絶したもの、わけのわからない叫喚であって、明確な発言ではない。そこには統一的な形式が当然はらんでいるあの矛盾や異質なものへの硬化がないかわりに、結局はただ、こなごなに粉砕された形式の破片のカオスがあるばかりである。

 

『ヴェニスに死す』が書かれたのは1913年、ジンメルのエッセイが書かれる3年前のことである。マリネッティの「未来主義創立宣言」の発表が1909年であり、運動体としての未来派はムッソリーニ政権発足後の1920年代半ばまで続くから、この小説は未来派の活動期に執筆されたということになる。つまり、『ヴェニスに死す』のトーマス・マンは、そして、グスタアフ・アッシェンバッハは、未来派が「こなごなに粉砕された形式の破片のカオス」へとなだれ込んでゆく時代のさなかを生きていたのである。日本に目を向ければ、生命主義的な表出を標榜するヒュウザン会(1912、1913年)が開催された頃のことだ。

 

しかしながら、アッシェンバッハは「わけのわからない叫喚」に陥ったわけではない。むしろ、タッジオの姿に触発されて古代ギリシャに心ひかれつつ古典的な形式性に従う文章を書こうと試みている。もとより「死の欲動[タナトス]」突き動かされている彼が、「生に拮抗するもの」を否定するわけがない。だが、彼は、形式の規律に生をゆだねているわけでもない。

 

彼の眼に映し出されるタッジオのうっとりするような姿は、アッシェンバッハが野放図な生と形式の規律との裂け目に活路を見いだしていることを示している。彼は、生の脱形式化がもたらす無秩序を、形式と生の裂け目から出現する影像によって回避しようとしている。作家を捕えている形式それ自体の魅惑とは、タッジオという個的な生においてあらわれた形式の魅惑であり、ここにおいて形式は、生にまつわる影像へと変成せずにはいない。形式的秩序でもなく、アモルフな生でもない影像の次元がそこに現出する。心身における凋落と賦活のアイロニカルな矛盾が、このようにして回避されるのだ。

 

美少年の面影に捕らわれた作家は、ついには、みずからをも面影と化そうとするに至る。ヴェニスへ向かう船で見かけた醜悪な若作りの老人さながらに、アッシェンバッハは理髪店で白髪を染め、化粧を施すことをみずからに許す。不毛な老らくの恋に身を焼かれる作家は、影像という粉飾によって「生物学的な衰微」からの逃避を計るのである。

 

 

そのころ、ヴェニスでは疫病がはびこりはじめていた。しかしながら、流行の事実と、その病名とは、社会経済を慮る当局によって滞在者たちに伏せられていたので――ちなみにいえば、当局による情報隠蔽の動機として「公園に開かれたばかりの絵画展覧会へのおもわく」が挙げられているが、これはヴェネツィア・ビエンナーレのことだろう――ホテルの宿泊客は呑気に日々を過ごしていた。しかし、アッシェンバッハは、理髪店で耳にした噂話と、そこかしこに漂う消毒液の匂に不穏なものを感じ取り、不安の念に駆られる。ドイツ語を耳にする機会が急に減ったことに気づいていた彼は、ドイツの新聞を丹念に読み、だいたいの状況をつかむ。そこには他国の新聞には見られない疫病関連情報が不確定ながら見いだされた。その後、彼はイギリスの旅行社で疫病にかんする詳細な情報を得ることになる。

 

蔓延しつつある疫病の名はコレラ、20世紀初頭のことゆえその致死率は8割、「けいれんとかすれた悲鳴のうちに、ちっそくしてしまう」悲惨なケースと、 「軽い不快ののちに、ふかい失神の形」で死に至るしあわせなケースとがあると小説には書かれている。疫病について、あらいざらい話し終えた旅行社の職員は、アッシェンバッハに今日にでもヴェニスを立つことを勧めた。

 

だが、作家は、さながらストーカーのごとくタッジオの家族たちをつけまわして、石炭酸の匂がたちこめるヴェニスの街をさまよいつづける。さまよいながら、青物商で買った熟れ過ぎた苺を口にする。砂時計の砂が竭きる刹那のように、時が終焉にむけて渦を巻き始めていた。

 

数日後の朝、いつものようにアッシェンバッハが渚に出ようとロビーを通りかかると、宿泊客の荷物が積み上げられている。門衛に聞いて、それがタッジオの家族のものであることを彼は知る。別離の情がもたらす動揺を抑え、何気ないようすを装って渚へと向かうアッシェンバッハは、その朝、体調がおもわしくなかった。心身にわたる眩暈、強い不安の念をともなう眩暈の発作に襲われつづけていたのだ。それは「外界に関したものか、それとも彼自身の存在に関したものか」わからない変調であった。外界と内面のいずれに帰することもできない異常な体感が裂け目となって、彼を呑み込もうとしていたのである。

 

アッシェンバッハは秋の気配の漂いはじめた渚のデッキチェアに身をゆだね、友だちと戯れるタッジオの様子を見守っていたが、少年たちのあいだにちょっとしたいざこざがあって、タッジオは、ひとり浅瀬を越えて砂州を歩いてゆく。冒頭に引用したのは、その情景である。このときタッジオは、海辺の光景のなかでほとんど影像そのものと化している。三脚に取り付けられたまま渚に置き去られ、黒い冠布[かぶり]を風にはためかせている撮影者なき写真機は、タッジオの変容を換喩的に示している。砂浜と砂州の境を成す水域を越え、水域に亀裂をはしらせる砂州に歩みを進めながらタッジオは急速に影像と化していった。

 

 

実吉捷郎[さねよし はやお]の訳によってここに引いたくだりは、もっと滑らかな表現を与えることもできる。最近の例から引けば、たとえば岸美光は次のように訳している。

 

広い水の帯によって固い地面から隔てられ、誇り高い気まぐれによって仲間たちからも 隔てられ、少年は歩みを進めていた。あらゆるものから切り離された、なにものとも結びつかないその姿は、髪をなびかせて、あの遠い海の中に、風の中に、霧のような無限の前にいた。

 

圓子修平は、このような訳を与えている。

 

幅の広い水の帯で陸地から隔てられ、誇り高い気紛[まぐ]れから仲間の者とは離れ離れになり、ひどくかけ離れた、取りつきようのない姿で、少年は髪を風になびかせながら離れた海のなかを霞む無限のなかを、ぶらぶらと歩いて行く。

 

これらの訳の方が実吉捷郎の訳よりだんぜん分かりやすく、現代的センスを宿している。だが、この場面は実吉訳がふさわしい。川村二郎が岩波文庫の解説でいうように「原文の形をそのまま訳文に写し取っている」ような、いささかぎくしゃくした文の組み立てが、たとえてみれば、ブロックノイズが発生し、切れ切れにフリーズするDVDの一場面のような語の配置が、アッシェンバッハの末期の眼に映るタッジオを彷彿させるからだ。最後に、いまいちど実吉捷郎から、そのくだりを、マンの原文と共に引いておくことにしよう。

 

幅のひろい水によって大陸から隔てられ、尊大な気分によって僚友たちから隔てられたまま、彼は、極度に分離した、連絡のない姿となって、髪をひらめかせながら、ずっと向こうの海のなかを、風のなかを、霧のごとく無際限なものの前をそぞろ歩いていた。

 

Vom Festlande geschieden durch breite Wasser, geschieden von den Genossen durch stolze Laune, wandelte er, eine höchst abgesonderte und verbindungslose Erscheinung, mit flatterndem Haar dort draußen im Meere, im Winde, vorm Nebelhaft-Grenzenlosen.

 

「無際限なもの」とは海であり、アッシェンバッハにとってそれは、単純で、巨大で、永遠で、完全なものにほかならなかった。そして、それは完全なものの一形態としての虚無でもあった。完全にして虚無。影像とはそのようなものとして、わたしたちを訪れるのだ。

 

遠くを指さすようなタッジオの姿に「望みに満ちた巨大なもののなかへ」と消え去ってゆくらしい兆候を見てとったアッシェンバッハは、少年のあとを追おうとしてデッキチェアから立ちかけたところで絶命する。その瞬間を見届けたのはタッジオだった。アッシェンバッハの眼差しにおいて影像と化しつつある少年は、何かに突き動かされるように振り返り、椅子の背に頭をもたれかからせている小説家へと視線を向けたのだ。このとき、グスタアフ・アッシェンバッハは、彼を眼差す[、、、]タッジオにおいて影像と化した。

 

そこには、もはや形式もなく生もない。生と死の境を越えて切れ切れにゆらめく影像が見て取られるばかりだ。生とそれを律する形式とのあいだに揺らめく影像、その遊動Spielのリズムに、老作家は消え入るように同期してゆく。息絶えた老作家の顔には、きっと愉楽の面持ちがみとめられたのにちがいない。それは生の不快から解き放たれた安堵の表情でもあったろう。

 

タッジオの眼差しが捉えた小説家の最期をトーマス・マンは、こうしるしている。

 

このときその頭は、いわばその視線を迎えるように挙げられた。と思うと、がっくりと胸の上へたれた。

 

 

2020年10月20日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第31回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いて居る。顔は下膨[しもぶくれ]の瓜実形[うりざねがた]で、豊かに落ち付きを見せてゐるに引き易[か]へて、額は狭苦しくも、こせ付いて、所謂富士額[ふじびたい]の俗臭を帯びて居る。のみならず眉は両方から逼[せま]つて、中間に数滴の薄荷[はつか]を点じたる如く、ぴくぴく焦慮[じれ]て居る。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しからう。

 

――夏目漱石「草枕」(1906)より

 

「草枕」のヒロイン那美の顔の描写である。描写しているのは、西洋画法を学んだ30代の旅の画家だ。画家は那美の父が所有する温泉地の屋敷に逗留している。ただし、画家といっても、この男は絵を描かない。彼はスケッチブックに俳句や漢詩をしばしば書き込むけれど、めったにスケッチはしない。これは、文芸と美術の別を厳しくいましめるモダニズムへの批判的スタンスの実践であるのだが、ここで那美の顔を言葉で描写してみせたのは、那美の顔が絵にならないということを示すためでもあった。

 

この一節に続けて「かやうに別れ別れの道具が皆一癖あつて、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだ」とある。統一感のない、いってみれば動的なコラージュのような面貌ということであり、画家は、それが内的な統一がないせいだと考える。「別れ別れの道具」のそれぞれを、背後の一点に引っ張るようにして、瓜実顔の輪郭のなかにきっちりとまとめ上げるものがないというのだ。つまり、絵にならない顔である。

 

では、顔に統一性を与える背後の一点とは、いったい何か。 

 

 

漱石は『文学論』で、文学を規定するのに「F+f」という式を掲げている。かんたんにいえば、文学のテキストには「認識的要素(F)」と「情緒的要素(f)」が、ともども備わっていなければならないということであり、これは絵画についても当てはまる。たとえば花を絵に描くとき、そこに何らかの情緒が寄り添うのは当然であるとして、図鑑のイラストとして描かれた花にとって、情緒は必須の条件ではない。「認識的要素(F)」が備わっていれば事足りる。

 

画家は、那美の顔つきに欠けているfを「憐れ」の情であると、やがて考えるに至るのだが、「憐れ」としてのfの欠落は実は画家自身が望むところでもあった。「非人情」であることを、芸術家としての――あるいは旅人としての――自己のスタンスと考えていたのである。「不人情」というのが情をかけるべき場面で情を発揮しない態度を指すのに対して「非人情」は、そもそも人情の外に立つことを意味する。そこに「憐れ」の情など望むべくもない。とすれば、那美の顔つきは、画家のそれでもありうる。人間の顔に統一性をもたらす内的な一点が「憐れ」の情であるのだとすれば、「非人情」の構えをとる画家自身の顔にも動的な不統一が認められるはずだからである。

 

画家が、宿泊地の床屋で、安物の鏡に映し出される自分の顔がさまざまに歪むのを目にする場面には、画家の顔の不統一性が示されている。画家は、右を向いたり、仰向いたり、前かがみになったり、左を向いたりして、みずから顔をさまざまに変形させるのだが、その歪みは鏡に由来している。

 

苟[いやしく]も此鏡に対する間は一人で色々な化物を兼勤しなくてはならぬ。

 

このようにして、鏡のなかの顔に動的な不統一性を画家は見いだす。目の当たりにした那美の顔に動的な不統一を見いだした画家の眼を、ここでは鏡が代替しているのだ。そして、そうだとすれば、那美の顔の不統一性は画家の眼に帰することもできるのにちがいない。引用した那美の描写と床屋の場面は対称を成しているのである。

 

 

不統一性ゆえに那美の顔は絵にならないと考える画家に対して、那美は「わたくしの画をかいて下さいな」という。「顔」を描いてほしいとはいわない。あくまでも「わたくし」と彼女はいう。だが、画家は、あくまでも顔にこだわる。顔を人間個々の表象と考えているからだ。眼前に突き出される顔は内的な統一点との関係において、その人間を代表する――そういう人間観が画家にはある。西洋派の画家としていたってまっとうな発想だが、那美の面貌はそれを裏切る有りようを呈しており、描く方も、内的統一と顔貌との均衡を成り立ち難くする「非人情」のスタンスを願っているとあっては、顔が描けるはずもない。 

 

結局、画家は絵筆を執って彼女の顔を描くことをせずに終わるのだが、小説の最後の場面で、那美の絵は「胸中の画面」として成就する。日露戦争の戦場に出征する那美の従弟と、満州へ渡る彼女の前夫を乗せた汽車を駅で見送る場面で、彼女に「憐れ」の情を画家が認めた刹那に内的イメージとして絵が成就するのである。画家は、汽車を見送る那美の肩を叩いて、「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」という。そのとき画家は彼女の顔を見てはいない。彼は「憐れ」の情を身体の発するオーラのようなものとして感じ取り、思わず彼女の肩に触れたのだ。画家が那美に触れるただ一度の場面である。

 

オーラとしての情緒。これは画家が密かに思い描く絵画の新たな可能性にかかわってもいた。再現性を踏み超えた「ムード」としての画面を彼は夢想し、遠慮がちながら「音楽の状態」(ウォルター・ペイター)に憧れを抱いていたのである。漱石がロンドンに留学したのはジェームズ・マクニール・ホイッスラーが《黒と金色のノクターン――落下する花火》(1875)を発表した二十数年後、色調によるムードを重んじるそうした画風が「トーナリズム」の名のもとにアメリカで注目を引いていた時代のことであった。

 

 

2020年10月6日

TEACHERS' SELECTION 先生の本棚から


摘読録――My favorite words 第30回

女子美術大学 名誉教授 北澤憲昭

 

ここでカモメを見たと思ったとき、私の頭はおかしくなかった。だからカモメを見たのではないことが分かった。/時々、物が燃える。私が自分で火をつけたときというだけの意味でなく、自然に火がつくことがある。だから、切れ切れの残骸が時に遠くまで飛んだり、 驚くほど高く舞い上がったりする。/いつしかそれにも慣れた。/でも、できることならぜひ、カモメを見たというのを信じたい。/ 実を言うと、私がこの海岸に来た大きな理由はたぶん、夕日が見たいと思ったからだ。/あるいは潮騒を聞くため。

 

――デイヴィッド・マークソン/木原善彦訳『ウィトゲンシュタインの愛人』(2020)

 

人間も含めて動物がすべて姿を消した地上に、ただ一人で生きている猫好きの女性の独白が延々とつづく。日々の出来事、あれこれの思い出、芸術にまつわるトリビアルな知識、思考、想像などを、彼女は淡々と意識の赴くままにタイプライターで書きとめてゆく。マークソンの小説は、このようにして紡ぎ出されてゆく。

 

彼女は画家で、名前はケイト、年齢は五十前後。かつてソーホーにアトリエを構え、ウィレム・デ・クーニングやロバート・ラウシェンバーグ、それから小説家のウィリアム・ギャディスらと交流があった。結婚して男の子をもうけたが、子どもは幼くして他界し、夫も飲酒が原因で死んでしまう。夫の死は、どうやら彼女の浮気が原因であったらしい。

 

ケイトは放置された自動車を駆って国境の消えた地上を経巡り、また、ときには船も操って、無人の美術館や古跡を訪ね歩く。途中、ルーブル美術館で《モナ・リザ》の額縁を燃やして暖を取ったり、メトロポリタン美術館の壁に自分の絵画作品を展示したりと好き勝手なことをしながら、ともあれ、いまはアメリカの海辺の家で暮らしている。カーオーディオの媒体がテープであることから1980年代以降、CDがテープに取って代わる90年代までのあいだに何かが起こったらしいと察せられる。

 

 

ここに書き記される事柄は、しばしば曖昧で、間違いもあり、のちになって繰り返し修正され訂正される。あるいは、訂正するつもりで却って誤ることもある。いずれにせよ、読者は、正確さを求めて繰り返される話題に幾度となくつきあわされ、そのたびに事柄を捉え直すことを強いられる。はじめに書き記した彼女のプロフィールも、そうした不安定なことばから得た不確定な情報にすぎない。ケイトという名前も末尾近くではヘレンに変わっている。本書のなかで幾度も言及されるトロイア戦争の発端に位置する稀代の〝浮気者〟ヘレネに由来する名前だ。

 

地上にただ一人で生きる者にとって名前など実質的にどうでもいいのだが、この変更が興味深いのは、彼女がホメロスの『オデュッセイア』を思い起こしつつ、ヘレネの従姉妹にあたるペネロペとオデュッセウス、そして彼らの息子のテレマコスの三人にみずからの家族をなぞらえようとしている節があるからだ。ここには、かつてジェイムズ・ジョイスが、オデュッセウスの英語名である「ユリシーズ」の名のもとに行った企ての木霊が感じられるのである。この小説は、現代文学の歴史と神話化された古代ギリシャの歴史のモアレとして成り立っているともいえるのだ。

 

そればかりではない。「私」という一人称が、タイプライターを打っている女性であると同時に、そこに言語として生成されてゆく女性であり、また、この二重化された女性を小説として成就するデイヴィッド・マークソンでもあるという事態に、読者は本書の終結部で否応なく気づかされる。しかも、小説を読みながら、訂正と修正とによって行きつ戻りつする読者としてのこの私も、幾筋かの記憶の繊維として「私」に混紡されているかのように思われもする。

 

 

ここに引いた一節も曖昧だ。このすぐ前のところで、彼女は、カモメに誘われてこの海岸に来たと書いているのだが、しかし、このくだりでは、ここに住みついたのは夕日と潮騒にさそわれたからだという。しかも、自分の眼にしたものがカモメでないことは分かっていると彼女はいう。何かの燃えかすが風に舞ったのだろうというわけだ。別のところでは、海岸で書物の頁を燃やし、それが風に舞う姿をカモメに見立てるシミュレーションを行ったと書いてもいる。

 

ちなみにいえば、この女性は書物を焼き、部屋に火を放ち、家屋を燃やし、また、惜しげもなく荷物を捨て去るのだが、その行動はポトラッチへの連想を誘い、ポトラッチをめぐってジャック・デリダがシカゴ大学で行った講義のタイトル「経済的理性の狂気 The Madness of Economic Reason」いうことばを思い起こさせる。この連想に従うならば、彼女は理性に宿る狂気を体現しているということができるかもしれない。

 

万事この調子で、修正と訂正の繰り返しによって事柄が宙づりにされたまま文章が進行してゆく。輪郭を捉え直す幾筋もの線が、亡霊のように残されたデッサンを見ているようだといってもよい。線の亡霊は事実探究の痕跡にほかならない。彼女が、事実と符合することばを求めていることは、ときおりことばの不正確さを嘆く独白が挟まれることに示されている。いくたびも鏡への言及が繰り返されるのも、このことと無縁ではないだろう。

 

 

彼女がカモメに関心を抱く動機のひとつに、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインへの関心がある。ウィトゲンシュタイは海鳥が好きで、アイルランドの海辺に暮らしていたときには、たくさんの鳥たちを餌づけして土地の人たちの語り草になったという逸話が伝えられている。彼女は哲学が得意ではないというけれど、ウィトゲンシュタインを読んだことがあり、ぜんぜん難解だとは思わなかったという。げんに、彼女はしばしば『論理哲学論考』冒頭のテーゼを口にする。「世界はそこで起こることのすべてだ」(The world is everything that is the case.)、と。

 

このウィトゲンシュタインのテーゼを踏まえて捉え返すならば、本書は、ひとりの画家がことばで「世界」を描き出そうとする企てとみることができる。事実の出来る限り正確な像を描き出すことで、その世界の構造を正確に捉え返そうとする試行である。ただし、描き出される事実には、思考や記憶、あるいは可能態としての幻影さえも含まれるし、事実と対応しない誤った記述もまた、記述というひとつの事実にほかならない。このようなに複雑に折りたたまれた事実を、「そこで起こること」として、彼女は次々と書き留めてゆく。

 

無人の都市や古跡をさまよっていた頃の彼女は「心から離れた[アウト・オブ・マインド]状態」だった。正気を失うか、もしくは記憶から消えた時間――Time out of mind.――を生きていたというわけだが、このように自らの外部に想定されていた世界は、彼女が「世界」の描写を進めてゆくあいだに、彼女自身を呑み込んでゆく。彼女は、みずからが描き出す「世界」に閉じ込められてゆく。「心から離れた[アウト・オブ・マインド]状態」にあった彼女は、心のなかに捕らわれた状態に、だんだんと陥ってゆく。彼女は独我論[ソリプシズム]症候群を呈しはじめる。ただし、その独我論的空間には、記憶と知覚にまつわるさまざまな声と像とがポリフォニックに交錯している。

 

☆ 

 

ウィトゲンシュタインに会っていれば「きっと彼のことが好きになっていただろう」と、彼女はいう。ウィトゲンシュタイが同性愛者であり、すくなくとも女性の愛人はいなかったことを彼女は知りつつ、そのようにいう。そして、「愛人」という言葉が時代遅れだとも彼女は書きしるす。「愛人」と訳されているmistressは「恋人」「女主人」とも訳されるが、はたしてWittgenstein’s Mistressというタイトルが、いかなる含意を有するのか。修正や訂正を繰り返し、たえず輪郭を変えてゆく本書の成り立ちからして、これを言い止めるのはむつかしい。

 

それでは、本書のモティヴェイションは、いったいどのようなものであるのだろうか。生きられた『論理哲学論考』というようにこの小説を捉える見方もあり、なるほどそのようにもいえるのだが、本書には、『哲学探究』によって代表されるウィトゲンシュタイン後期の思想の影も揺曳している。生の有りようと同じく予測不可能なゲームとして言語活動を捉え返し、ことばは、そのゲームにおいて――ときには真剣に、あるいは嬉々として行われる言語ゲームにおいて――意味を帯びるとする発想だ。

 

マークソンのモティヴェイションは、ケイトのモティヴェイションに対するメタの立場にありながら、その大部分をケイトと分有しているとみることができる。つまり、モティヴェイションにかんしてマークソンとケイトが互いに互いのゴーストであるような状態が想定されるのだが、もしそうだとすれば、本書のモティヴェイションは書くということにまつわる情動といえるのではないだろうか。すなわち、書くことと生きることを同期させる情動である。ケイトにとって書き記すことが――「この海岸に誰かが住んでいる」という末尾のことばが暗示するように――自身の存在の証であるのだとすれば、彼女の叙述に自己の小説を重ね合わせるマークソンにとっても、書くことは自己の存在の手ごたえを得る手段だったのではないかということだ。

 

だが、本書のモティヴェイションを示すには、本書にしるされた音楽をめぐる次のエピソードを引用すれば、それで事足りるのかもしれない。

 

かつて誰かがロベルト・シューマンに、今あなたが弾いていた曲の意味を説明してくださいと言ったことがある。/するとロベルト・シューマンはもう一度ピアノの前に座り、 同じ曲を弾いた。

 

 

このいささか長くなりすぎた小文の締めくくりとして、ついさっき引いたこの小説の末尾の一行を、デイヴィッド・マークソンがケイトと共にしるした遣る瀬なく切ないメッセージを原文から引いておくことにしよう。

 

Somebody is living on this beach.

 

*[ ]内は直前の語の振り仮名。スラッシュは原文改行。

 

 

 

 2020年9月23日改稿

2020年9月10日
Top